【愛知県の皇室伝承】14.平治の乱の敗者・源義朝とともに逃れてきた重仁親王の御墓? 「王塚之古跡」(西尾市)
「王塚之古跡」関連地
被葬者は誰? 皇室の方々がなぜか多々挙げられる「王塚」
愛知県西尾市は吉良町友国王塚に、「王塚之古跡」という記念碑が立っている塚がある。今となっては集団住宅地の片隅に塚の一部が残っているだけだが、かつては綺麗な前方後円墳の形をしていたらしい。
伝承によればこの塚は、「王塚」の名にふさわしく、皇室に連なるどなたかの埋葬地だという。最も一般的に語られる伝説によれば、人皇第七五代・崇徳天皇の第一皇子であらせられ、世が世ならば至尊の宝位をお承ぎになったであろう重仁親王の御墓だそうだ。
父院が保元の乱に敗れて讃岐国に流され給うた後、重仁親王は落飾されて仁和寺に居らせられた。史実ではそのまま仁和寺において薨去しているが、伝説によれば平治の乱の折に、遠州鎌田庄へお移りになるべく、敗軍の将となった源義朝としばらく行動を共にされたそうだ。
よく知られるように義朝は家人である知多郡野間の長野氏のもとにその身を寄せたが、頼みの綱であったはずの長田忠致・景致父子の裏切りに遭い、入浴中に弑逆されてしまった。重仁親王はこの時、難を逃れて船で津平一が瀬に上陸され、今の友国一帯の領主とならせられて、その地で薨ぜられたというのである。
そんな重仁親王がお眠りになっているといわれる王塚だが、その目と鼻の先には、かつて「王塚社」という人皇第七七代・後白河天皇をご祭神とする神社があったという。なぜ後白河天皇をお祀りする神社がそこにあったかというと、後白河天皇こそが王塚の被葬者だという伝説もあるからだ。
後白河天皇のように、重仁親王の他にも被葬者として名を挙げられる方が何人かいるが、彼らにはおいおい触れるとして、まずは周辺にある関連地について記す。
王井戸
王塚から南へ行くこと約二〇〇メートル。小川の畔に「王井戸」と呼ばれる井戸がある。夏季には鬱蒼と生い茂る草に隠れてよく見えなくなってしまうようだが、その側にはこう記された看板がある。
この古井戸は「王塚と関係があると思われる」とのことであるが、詳しくはわからないという(『吉良町誌』)。
王池
相当に古い池で、王塚にちなんで名付けられたらしい。周辺には他にも「王橋」という王塚にちなんだ橋が存在するが、どちらもこれ以上特筆すべき情報はない。
補陀洛山観音寺
今日では廃寺となっている。後白河法皇が平治の乱に際して、兵火を逃れるべく来らせられたという伝説があるようだ。
後白河法皇がお書き写しになった観世音菩薩普門品(=観音経)を埋めた場所である「経塚」や、おそらくお手植えの「王松」という松があったそうだが、それらが今どうなっているかは、なにぶん廃寺のことゆえ明らかではない。
王塚山本縁寺
仁平三(一一五三)年に後白河法皇がお作りになったと伝えられる鬼子母神像が、建久五(一一九四)年より安置されているという。法皇お手製の仏像が当寺に持ち込まれた経緯は不明だが、補陀洛山観音寺の節で見たような下向伝説がこちらにも伝わっているのだろうか。
「小山田地蔵尊」萬松山勝楽寺
室町幕府の初代征夷大将軍・足利尊氏が創建したという三河国有数の古刹である。ご本尊の地蔵像は、平治元(一一五九)年に後白河法皇がお手彫りになったと伝わる。
当寺は王塚について、後白河天皇の御陵だと伝えている。補陀洛山観音寺と同じように、法皇がはるばる三河国にまで下向なさったと言い伝えているのである。
曬稿社
吉良町中野晒橋に鎮座する曬稿社の境内に、昭和三十年代まで「曬稿の松」などと呼ばれる名松があった。地元には、後白河天皇お手植えのクロマツだという伝承もあったそうだ。
伊勢湾台風など、相次ぐ台風の襲来により弱って枯れてしまったものの、今なお境内には切り株が残されており、注連縄が張られている。
江頂山正向寺
当寺の縁起によれば、王塚は人皇第九六代・後醍醐天皇の第七皇子にあたらせられる稲良親王(※躬良親王とも)の御墓なのだという。なお王塚は、寺嶋の伊奈氏由緒でも稲良親王の御墓とされている。
ちなみに、王塚の傍らには「小塚」という古墳があったそうだが、同寺はこれを開基である北畠中納言顕広の御墓だと伝えてきたという。
余談:春日神社の「榊の木」
王井戸の南方にある春日神社は、ご祭神として天児屋根命、後白河天皇をお祀りしている。後白河天皇をお祀りしていたらしい先述の「王塚社」を、明治四十五(一九一二)年に合祀したのだという。
そんな当社の拝殿の壁には、不思議な形をした榊の木が飾られている。
そのすぐ上にある看板によれば、おそらくはご祭神の天児屋根命(=春日大明神)と皇女との恋愛に関する伝説があった木であるようだ。
どこに植わっていた榊なのか、どの帝の何という皇女なのか――。情報があまりに少なく、書けることはほとんど何もないが、想像を逞しくしよう。
重仁親王を慕って、その姉妹にあたらせられる崇徳天皇の知られざる皇女がいらっしゃったのであろうか。あるいは、後白河法皇とともにその皇女がおいでになったのだろうか。日本神話の神が当事者であるようだから、神代に近い古代の物語なのかもしれない。
おわりに
これまで伝・被葬者として重仁親王、後白河天皇、稲良親王のお三方を挙げてきたが、この他にも後白河天皇の皇子の御墓だと言い伝えている古文書もあるらしい。詳細は一切不明だが、平氏政権の全盛期に平氏追討の令旨を出したことで知られる以仁王のことだろうか。
おそらく実際の被葬者は皇統に属するほどの貴種ではないのであろうが、いずれにせよ、皇室に関する伝承がこれほど局地的に集中している地域は、地方としてはそう多くないのではないだろうか。
世間に流布する貴種流離譚は、弘文天皇(=大友皇子)、安徳天皇、南朝の天皇・皇族など、非業の最期を遂げたり皇位継承争いに敗れて没落してしまったりした方々が実は地方で生き延びていたというパターンが大部分だ。そんな中、後白河天皇のような誰の目にも正当な帝王が実際には地方で崩御していたといった伝説はかなり珍しいパターンだといえるだろう。
参考文献
・浅井岩次郎『吉田村史』(吉田村、大正四年)
・『幡豆織物案内誌』(幡豆郡織物同業組合、大正十一年)
・『愛知県幡豆郡誌』(大正十二年)
・『吉良町誌』(昭和五十六年)