【愛知県の皇室伝承】18.『伊勢物語』の舞台「八橋」における賜姓皇族「在原業平」(知立市)
賜姓皇族「在原業平」と『伊勢物語』
誰もがおそらく名前くらいは聞き覚えがあるであろうが、平安時代前期、在原業平という貴族がいた。日本の歴史に詳しくなければ、「在原」という姓では摂関家たる藤原氏ほど高貴な血筋だとは感じられないかもしれないが、彼はけっしてただの下級貴族ではなかった。
それというのも、両親がそれぞれ皇族という極めて高貴な血統だったからである。御父君は人皇第五十一代・平城天皇の第一皇子であらせられる阿保親王、御母君は人皇第五十代・桓武天皇の皇女であらせられる伊都内親王だ。したがって業平自身も、生を享けた時点では皇族の身分であった。
古代以来の『継嗣令』によれば、天皇の男系の孫の身位は「王」である。業平が「在原」の姓を賜って臣籍に降下したのは生誕の翌年のことだから、一歳くらいのごく幼い頃までではあるが、「業平王」とでも申し上げられるべき方であったわけだ。
そのような理由から、一般的には貴族として扱われる在原業平にまつわる伝説も、賜姓皇族(=元皇族)としてこの「皇室伝承」シリーズで取り扱うことにする。
紫式部が著したとされる『源氏物語』と双璧をなす平安時代文学の大傑作『伊勢物語』。この歌物語の主人公であるいわゆる「昔男」は、わが国における代表的な歌人として「六歌仙」「三十六歌仙」などに名を連ねる業平がモデルであろうと古くから考えられてきた。
昔男が「東下り」の途上で立ち寄ったという三河国八橋の地、今日の愛知県知立市八橋町には、業平の遺跡・遺品とされるものが多く残っている。
「八橋」における業平の遺跡・遺品
八橋山無量寿寺
在原業平とそのご両親(阿保親王、伊都内親王)の像が安置されている。
境内には他にも、業平がかきつばたを手植えしたという触れ込みの「業平池」や業平お手汲みの井戸とされる「業平の井」など、業平にまつわるものが多くある。
津本信博『更級日記の研究』(早稲田大学出版部、昭和57年)によれば、境内の「業平竹」や「一本薄」は、現在の奈良県天理市にあった大和国在原寺――業平の邸宅跡。明治時代初期の廃仏毀釈により廃寺――から移植したものだという。
本堂の裏には「姫塚」と呼ばれる小さな塚があり、その上に宝篋印塔が置かれている。業平と同時代の公卿・小野篁の娘「杜若姫」の墓所といわれる。杜若姫は、都から業平を慕って追ってきたとされ、一説によれば、人皇第五十五代・文徳天皇の后だという。
以下に、杜若姫の伝説のあらましを書いておく。
業平が『伊勢物語』に語られる東下りを決意したのは、想ってはならないほど身分の高い杜若姫を愛してしまったせいであった。しかし杜若姫は、密かに京都を抜け出して、業平の後を追って八橋まで来てしまった。
業平と杜若姫は、とある川を隔てて会った。現在の「逢妻川」である。
「わたくしが、東国へ旅に出たのは、あなたの幸せを願ってのことです。今、ここでいっしょになっては、わたくしの心も、また乱れてしまいます。どうぞ、わたくしのことを忘れて、都に帰って幸せにくらしてください」
業平にこう言われた杜若姫は、悲しみから病を得てしまい、やがて池に身を投げてしまった。その亡骸を葬った場所が、無量寿寺の姫塚だというわけである。
鎌倉街道の付近には20世紀の後期まで、杜若姫が身を投じたとされる池があり、「業平池」と呼ばれていた。
知立市史編纂委員会『知立市史 下巻』(昭和54年)によれば、八橋には、杜若姫の入水以来美人が生まれなくなったとか、業平が投獄で去ってから美男子がいなくなったとか、そんな失礼な話も残っているそうだ。
なお、近辺には「下馬」という地名がある。勝屋馬三男『八橋之開眼』(大正15年)によるとそれは、業平の「いもうと来りて馬より下りし所」と言い伝えられてきた地だという。古語の「妹」には恋人という意味もあるから、これも杜若姫のことであろうか。
業平塚・業平供養塔
八橋山無量寿寺の縁起によれば、業平は自身の遺骨の半分を大和在原寺に収め、もう半分を三河国八橋に葬るよう遺言したという。
その遺骨の半分が納められたとされるのが、この業平塚である。頂上には業平供養塔がある。
この宝篋印塔は「疣神様」として信仰されてきた。笠に溜まった水を疣に付けると疣が取れると伝えられてきたからである。なお、「八橋伝説地」として県の名勝に指定されているため、今では無断で宝篋印塔に触れることは禁止されており、したがって水を採取することもできない。
紫燕山在原寺
分骨を収めた上記「在原業平供養塔」の近くに、業平の菩提を弔うために建立されたと伝えられる。寺宝の一つとして業平像がある。
すでに述べた通り、疣を治すご利益があるという業平供養塔の水の採取はもはや叶わないが、今日の在原寺では「疣神様」の代わりとして寺の業平像に水を備えて祈祷をし、その水を分けているという。
かきつ姫公園・落田中の一松
言い伝えによれば、『伊勢物語』の「東下り」に登場し、『古今和歌集』にも収められているかの有名な和歌、
「唐衣きつつなれにしつましあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」
を業平が詠んだ場所だという。
おわりに
八橋町に数多ある在原業平にまつわるものの由緒は、残念ながら江戸時代以降に作られたものであるようだ。
「在原寺とか在原業平供養塔などと称するものもあるが、いずれも江戸時代以降の付会とするほかはない。愛知県知立市八橋町に今に残る遺跡・遺品は、率直に言ってどれもこれも信を置きがたいものである」――『鑑賞日本古典文学 第5巻』(角川書店、昭和50年)72頁。
しかし、そうだとしても歌枕として天下に名高い八橋の価値はいささかも損なわれないはずだ。結びに代えて、八橋を題材とした歴代天皇の御製、皇族の御歌を次に挙げておこう。
・から衣きつゝなれにし跡ふりて けふぞみかはのぬまの八橋【後鳥羽院】
・八橋のくもでになびく杜若 むかしの花の名残とぞ見る【土御門院】
・駒とめてしばしはゆかじ八橋の くもでにしろきけさの淡雪【順徳院】
・一筋に思いさだめず八橋の くもでに身をも嘆くころかな【宗良親王】
・八橋や水ゆく河のくもでとも しら波こゆる五月雨のころ【後土御門院】
・八橋やむかしとぞ思ふかきつばた 今もさかりの色を見るにも【桜町天皇】