天皇の父親が「皇族」にすぎない…そんな事態に「象徴天皇制」はどう向き合うのか(後編)
傍系継承時、厚遇は論争を招いた
実子が即位しながらも特別扱いされていない男性皇族が「岡宮天皇」こと草壁皇子以降おられないことは前編ですでに述べた通りだが、それは天皇の父親を「尊称天皇」もしくは「追尊天皇」とすることが当然視される時代が千数百年間にわたって続いたことを意味するものではない。
漢字文化圏では、帝王が即位していない父に対して尊号を奉ることがよくあった。だが、直系継承の場合――たとえば祖父から地位を継承した新皇帝が、皇太子のまま早世した父を追尊するというような――ならばともかく、傍系継承の場合には、その叡慮が「正統」をめぐる騒動を引き起こすことも少なくなかった。
筧敏生によると、先帝の後継として即位した傍系出身の皇帝が実父に尊号を奉ることは、世系を重視する儒教的観念からして原理的にありえない――というのが中国の考え方だという。
それゆえに中国の歴代王朝では、宋代に英宗の実父・趙允譲の祭祀上の取り扱いをめぐって「濮議」という議論が起きたり、明代に世宗(=嘉靖帝)の実父・朱祐杬への追尊をめぐって「大礼の議」という議論が起きたりしている。
日本でも同じように、先帝の養子/猶子として即位したのならば実父たる皇族をもはや特別扱いすべきではない、とする主張が強い力を持った時代があった。
たとえば室町時代には、後花園天皇が即位した後には、養父・後小松天皇が属する後光厳流と実父・伏見宮貞成親王が属する崇光院流のどちらを継承したのかが問題になった。実父であることを理由に貞成親王に「太上天皇」の尊号を奉るべきではないとする反発が根強く、後花園天皇は結局、実父に対するものとしての尊号宣下はできなかった。
忘れてはならないのが、江戸時代後期に後桃園天皇の後継者として閑院宮家から即位した光格天皇が、実父・閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうと考えたことに起因する騒動「尊号一件」である。
今では「慶光天皇」とも呼ばれる典仁親王だが、江戸幕府の猛反対により生前に尊称を受けることは叶わなかった。勅問を受けた公家の大部分は尊号宣下に賛成したけれども、当時の幕府老中首座・松平定信や、前関白・鷹司輔平(※典仁親王の異母弟。閑院宮家から鷹司家へ養子入り)とその息子の左大臣・鷹司政煕が反対したのである。
また、薨去後すぐに追贈があったわけでもない。典仁親王に「太上天皇」の尊号とともに「慶光天皇」の諡号が贈られたのは、薨去から約九〇年後の明治十七(一八八四)年のことだ。
現代人の目からすると、天皇の実父を「尊称天皇」もしくは「追尊天皇」とする時代が千数百年間にわたって続いていたように見えなくもないが、今から約二百五十年前には当然視されていたわけではなかったのである。
「皇位は私物ではない」と唱えた松平定信
尊号一件の際に松平定信がこれに反対したことはよく知られている。ほぼ同時期に征夷大将軍・徳川家斉の実父である徳川治済に「大御所」号を贈ることの是非が問題になったことも非常に有名だ。
しかし、松平定信が具体的にどんな主張をしていたかまではそう知られていない。憲政以前の歴史の話が大きな比重を占めすぎるのもいかがなものかと思うので尊号一件について詳述はしないが、それでも彼のこの主張だけは取り上げておきたい。
藤田覚『光格天皇:自身を後にし天下万民を先とし』より現代語訳をそのまま拝借すると「皇位に就かなかった者に太上天皇の尊号を授けるのは道理に合わないし、皇位は私物ではないので私情で尊号を授けるのは筋が通らない」だ。
皇位は私物ではないから「天皇」の文言を含む尊号を贈るべきではないという松平定信の主張は、当時でも大きな説得力を持っていた。天皇の地位が天壌無窮の神勅ではなく「国民の総意に基く」とされる象徴天皇制の今日にあっては、彼の主張はよりいっそう大きな説得力を持つはずである。
参考にしづらい憲政以前の事例
ここまで天皇の即位していない父親について書いてきたが、同様の問いとして、皇后を経験していない天皇の母親は「皇太后」になれるのだろうか、また、夫の即位前に薨去した皇嗣妃に「皇后」を追贈することはありうるのだろうか。
宮内庁(旧宮内省/旧宮内府)の公式見解としては確認できていないが、次のように記述している書物もある――。
これが正しければ、傍系皇族が即位した際には、新天皇の母親といえども皇太后とはされず、親王妃か王妃のままとされるようだ。
しかし現実的には、天皇の母親たる皇族にはその立場にふさわしい待遇が求められるはずだ。故皇太子の妃ですら、皇太子妃に次ぐ班位を認められるのである(※旧皇族身位令第四条)。故皇太子妃くらいの格が認められればまだしも、さすがに王妃の待遇でよいというわけにはゆくまい。
天皇の父親たる王にも同じことがいえよう。子女の一人はもちろん天皇に、そして他の子女たちは天皇の兄弟姉妹として親王・内親王になるというのに、彼らの父親の身位が依然として王のままなのだとしたら、この上なく奇妙な形ではないだろうか。
だが、日本国憲法や皇室典範との兼ね合いから、伝統に従って「天皇」や「皇后」の尊称を贈ることは難しいように思われる。象徴天皇にできるのはせいぜい、今もなお旧皇室令に准じて行われている儀式の空間において礼遇することくらいかもしれない。
要するに、尊号そのものを贈るのではなく、それに准じる待遇を与えるという礼遇の方法である。思い出されるのが、『源氏物語』の作中で、主人公である光源氏が息子の冷泉帝から「太上天皇になずらふ御位」を賜ったことだ。
准后はともかく准太上天皇については、人皇第六七代・三条天皇の皇子で皇太子を辞退した敦明親王――「小一条院」を称した――しか歴史上の実例がないが、苦肉の策としてこの唯一の例が掘り起こされて新たな伝統になるということも、もしかしたらありうるのだろうか。
平成末期に召集された「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の折には、譲位についてこんな意見も出たらしい。
「日本国憲法下の天皇に係る議論において立憲制確立より前の事例は参考にならないのではないか」
この意見は、天皇の親たる皇族という特殊な存在をどう扱うかという問題にもそのまま適用できそうだ。今の皇室典範下では、天皇の両親が王と王妃という事態すらいずれ現実のものとなりうるが、皇室はその時いったいどう対応するのだろうか。
【事例集】
漢字文化圏の事例
中国史上最後の王朝である清朝では、二度にわたり傍系継承があったものの、先述のように傍系継承の際に実父に尊号を奉るのは好ましくないという観点から、どちらにも「皇帝」としての尊号は贈られていない(※光緒帝の父・愛新覚羅奕譞と、宣統帝の父・愛新覚羅載灃)。
その中国の隣国で「小中華」を自任してきた韓国ではどうか。こちらでは中国とは異なり、傍系継承による君主の実父にも尊号が贈られることが多々あった。その傾向は特に新羅王家において顕著である。
「文興大王」:第二十九代・武烈王の父。
「開聖大王」:第三十七代・宣徳王の父。
「玄聖大王」:第三十八代・元聖王の高祖父。
「神英大王」:第三十八代・元聖王の曽祖父。
「興平大王」:第三十八代・元聖王の祖父。
「明徳大王」:第三十八代・元聖王の父。
「恵忠大王」:第三十九代・昭聖王の父。
「翌聖大王」:第四十三代・僖康王の父。
「宣康大王」:第四十四代・閔哀王の父。
「恵康大王」:第四十五代・神武王の祖父。
「成徳大王」:第四十五代・神武王の父。
「懿恭大王」:第四十八代・景文王の父。
「宣聖大王」:第五十三代・神徳王の父。
「神與大王」:最後の国王・敬順王の父。
(※高麗王朝の命により編纂された朝鮮半島に現存する最古の歴史書『三国史記』による)
新羅王朝においては、歴代国王の実父の尊称として「葛文王」という称号があったようだ。追尊されていない国王の父親は、第二十六代・真平王の父である銅輪太子くらいだろうか。
高麗王朝では、第六代国王・成宗が父の王旭に「宣慶大王」と、第八代国王・顕宗が父の王郁に「憲景孝懿大王」と追尊している。また朝鮮王朝では、一八九七年の大韓帝国への発展後、歴代国王の即位していない父親に「皇帝」号を奉っている。
・「昭皇帝」孝章世子:第二十一代国王・英祖の子。夭逝。甥(※第二十二代国王・正祖)が養子という形で王位を継承した。
・「懿皇帝」荘献世子:第二十二代国王・正祖の実父。
・「文祖翼皇帝」孝明世子:第二十四代国王:憲宗の父。
かつて沖縄諸島を治めていた旧琉球王家でも、日本の皇室と同じように、王世子ではなく傍系王族であっても、王の父親であれば尊号を奉っていた。
・「尚懿王」:第七代・尚寧王の父
・「尚久王」:第八代・尚豊王の父
・「尚哲王」:第十二代・尚益王の父
ヴェトナムの歴代王朝も同様である。後黎朝の第二十九代皇帝・黎愍帝の即位後、その父の故皇太子・黎維禕が「佑宗」という廟号を贈られている。最後の王朝である阮朝でも、第十代皇帝・成泰帝が傍系から即位した時に、その父が「恵皇帝」と追尊されている。
しかし結局のところ、近代国家としてまともな憲政を経験する前に王朝が終焉してしまったので、漢字文化圏の君主制はいずれも参考にはできまい。
ヨーロッパの事例
皇室制度が明治維新以来多くを参考にしてきたヨーロッパの国々ではどうだろうか。以下、君主の即位しなかった父親の実例をいくつか挙げよう。
・ブルゴーニュ公ルイ(フランス王ルイ十五世の父)
・ルイ・フェルディナン・ド・フランス(フランス王ルイ十六世の父)
・ウェールズ大公フレデリック・ルイス(イギリス王ジョージ三世の父)
・ケント公エドワード・オーガスタス(イギリス女王ヴィクトリアの父)
・アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン(プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の父)
・オーストリア大公フランツ・カール(オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の父)
・オーストリア大公オットー・フランツ(オーストリア皇帝カール一世の父)
・ルイトポルト・フォン・バイエルン(バイエルン王ルートヴィヒ三世の父)
・フリードリヒ・フォン・ヴュルテンベルク(ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム二世の父)
・フランドル伯フィリップ・ド・ベルジック(ベルギー王アルベール一世の父)
・ヴェステルボッテン公グスタフ・アドルフ(スウェーデン王カール十六世グスタフの父)
(※太字で示したのは皇太子/王太子)
生まれながらの皇太子/王太子が早世した場合でさえ、尊号は奉られていない。日本とは異なりヨーロッパでは、君主が親に対して尊号を奉るという文化が存在しなかったのである。
数少ない例外として、スペイン王フアン・カルロス一世の父であるバルセロナ伯爵フアン――第二共和政の崩壊後もフランコ体制に拒否されて即位を果たせなかった――が、薨去後に「フアン三世」と追尊されたといわれる。
しかし、これをスペイン王としての追尊だと見なすとしても、彼が即位を果たせなかった事情を思うとこれは、フランス王ルイ十六世処刑後の王太子ルイが正統主義者の視点から「ルイ十七世」と呼ばれるのと大差あるまい。
また、その墓碑銘があくまで「バルセロナ伯爵フアン三世(Ioannes III, comes Barcinonae)」というものであることに留意すべきではないだろうか。バルセロナ伯はスペイン王冠に統合された称号の一つであるため、これは彼が君主格の人物として認められたことを示すものではある。しかし極端な話だが、将来フアンという名の王が現れた時に「スペイン王フアン三世/バルセロナ伯爵フアン四世」と称号の代数にズレが生じる可能性も皆無ではないように思われるのである。
「尊号文化圏」とでも呼ぶべき東アジア周辺にはもはや象徴天皇制の参考としうる王朝がないし、明治維新後の日本が多くを参考としてきたヨーロッパでは、君主の親に尊称を奉ることが基本的にない。外国に参考事例を求めることができないのは、皇室としても悩ましいことなのではないだろうか。
【参考文献】
・『三国史記』
・『高麗史節要』
・中山八郎「明の嘉靖朝の大礼問題の発端」(大阪市立大学文学会『人文研究』第八巻第九号、一九五七年)
・伊波普猷、東恩納寛惇、横山重編『琉球史料叢書 第四』(井上書房、一九六二年)
・横久保義洋「嘉靖大礼議の経学的解釈:毛奇齢の立場」(『中国研究集刊』第十三号、一九九三年)
・筧敏生「藤原仲麻呂期の尊号について」(『名古屋大学文学部研究論集. 史学』第四十二巻、一九九六年)
・御厨貴『天皇の近代:明治150年・平成30年』(千倉書房、二〇一八年)
・田村航「伏見宮貞成親王の尊号宣下:後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和」(『史学雑誌』第一二七巻第一一号、二〇一八年)
・藤田覚『光格天皇:自身を後にし天下万民を先とし』(ミネルヴァ日本評伝選、二〇一八年)