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【補記】「愛子天皇」「悠仁天皇」以前の大問題である…男系vs.女系論争で完全に見落とされている皇室制度の致命的欠陥【プレジデント社『プレジデントオンライン』寄稿】

 先般、プレジデント社『プレジデントオンライン』より拙文が新たに公開された。執筆にあたりお世話になった皆様には改めて篤くお礼申し上げる。

 こちらのnote記事では、文章のバックアップを取るという目的も兼ねて、いつものように草稿をほぼそのままの形で公開しよう。

【仮題】今ある宮家を存続させても身位が「王」では心もとない…「安定的な皇位継承」のために検討すべきこと

【仮副題】望ましいのは「親王宣下」の限定的復活

皇族数確保の切り札として脚光を浴びる「旧宮家」

 GHQ占領下の昭和22(1947)年10月14日に民間人になった伏見宮系の元皇族ならびにその子孫――いわゆる「旧宮家」の方々――が、令和の御代を迎えてからというもの、一定の皇族数を確保するための切り札として脚光を浴びている。

『官報』第6226号(昭和22年10月14日)より、伏見宮系皇族の皇籍離脱の告示。

 旧宮家をめぐっては、現天皇家との共通男系祖先が室町時代の伏見宮貞成さだふさ親王であることから、血縁が薄すぎて国民に受け入れられないのではないかと懸念する声もある。

 だが、戦前の日本人はそんな伏見宮系の皇族方を、在位中の天皇とは男系のみでは遠縁であることを知りつつも、軽んじるどころか憧憬の対象としていたようだ。近代生まれの著名人らの回想によれば、特に女性たちの関心ぶりは凄まじいものだったらしい。

「僕らの少年の頃から、月給取りの妻君連中の話題と言えば、皇族の戸籍しらべで、なんの宮の子供が何人あって、それが何の宮のいとこにあたるとか、異常な興味をもっていて、その話に上越す話がないようであった」――金子光晴「天皇陛下」(『思想の科学』第46号、昭和41年)

 もちろん当初のうちは違和感を覚える国民も少なくないはずだが、皇籍に入る方が皇族としてふさわしい品位を備えていさえすれば、きっと時の流れが解決してくれるであろう。

 とはいえ、皇室制度の在り方が今のままならば、系譜をある程度遡らなければ歴代天皇に行き着かないという点は、とある別の理由から確かに「安定的な皇位継承」にとっての不安要素になりうるのではないだろうか。

養子縁組で「身位」はどうなるのか

 政府の有識者会議が令和3(2021)年に取りまとめた最終報告書では、皇族数の確保のために「養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とする」という方法が挙げられている。

 要するに今ある宮家を旧宮家の男子に継承していただこうという案だが、ここで着目したいのが、皇族の身位について「三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王」とすると定める現皇室典範の第6条である。

 この規定に従えば、たとえば常陸宮殿下が養子を取られる場合、養子自身は形式的には昭和天皇の孫として親王になるが、その次代からは王となる。より傍流にあたる三笠宮家や高円宮家では、次代からどころか養子自身も、彬子女王殿下らと同じように王となる可能性が高い。

「悠仁天皇」の頃には「王」ばかりに

 前述の報告書には「法律により直接皇族とする」という方法も挙げられているが、皇籍離脱前には鎌倉時代後期に在位した後伏見天皇の子孫としての扱いだったことからすれば、この場合も王になるのが自然だ。

 大正9(1920)年の「皇族の降下に関する施行準則」では、当時の伏見宮系皇族の共通祖先である邦家親王の子世代が「一世」とみなされた。今後の議論次第では、このように特例的に一世とみなして親王とする可能性もあるかもしれない。

 しかし仮にそうなるとしても、今から60年、70年後のことになるであろう「悠仁天皇」の御代の末頃には、世代交代が進んで宮家の男子たちの身位はやはり王ばかりになっていると考えておいたほうがよいだろう。

 もしも悠仁親王殿下の系統が続かなければ、身位が王にすぎない皇位継承者が現れる可能性が高い。これこそが、広い意味での「安定的な皇位継承」の不安要素として筆者が憂慮する点である。

人皇第百代・後小松天皇。赤坂恒明『「王」と呼ばれた皇族:古代・中世皇統の末流』(吉川弘文館、令和2年)によれば、親王となる手続きを踏まずに(=幹仁王として)登極したという。

親王でも皇族費だけなら「本当にぎりぎりの生活」

 皇位継承者が傍系皇族の王だったら何が問題なのか。簡潔にいえば、未来の天皇を育てるという使命の重大さに比して、歳費が少ないことである。

 よほどのことがない限り、能力ではなくただ血筋によって地位を継承するのが世襲制というシステムではあるが、それでも日本国の代表者として各国の要人と交際される可能性が一定程度ある高位皇族には、できるだけ高等な「帝王学」を受けていただくこと、さらには国内のご視察なども早くからしていただくことが望ましい。

 そう考えた時、気にかかるのが三笠宮家の故寛仁親王がかつて次のようにおっしゃったことだ。

「宮家にはお客さんが来た時にお茶やお菓子を運ぶ若い女性がいます。彼女たちを『侍女』と言いますが、私が歳費の中から雇っています。そういう人件費だけで歳費の半分は飛んでしまう。幸い私には講演料や印税などがありますから、娘たちに栄耀栄華とまではいかなくても、それなりの生活を送らせることができますが、それがなければ本当にぎりぎりの生活でしょうね」――『文藝春秋』平成18年2月号

 親王の身位をお持ちの皇族であっても、歳費のみではかなり苦しい生活を強いられそうだというのである。皇族方は医療保険にお入りになっていないので、ご病気になられた時の出費もかなり痛いそうだ。

 その親王の「十分の七に相当する額(※皇室経済法第6条)」しか歳費を受けられない王ならば、よりいっそう苦しい生活を余儀なくされるであろうことは想像に難くない。親王家にとってすら負担になりそうな帝王学などのための出費は、王家にとってはかなり酷なものになるはずだ。

王の歳費の少なさは皇位に「非常に遠い」からこそ

 そもそも親王と王で歳費の金額に差が設けられているのはなぜか。これについては、敗戦からまだ日が浅い昭和21(1946)年12月12日、衆議院での皇室典範案委員会において、憲法担当国務大臣の金森徳次郎が次のように説明している。

「皇族の方々でありましても、おのづから皇位継承との関係の遠い近いという点によりまして、そこに差別があつてもしかるべきものと思うわけであります、皇位継承の順位に非常に近接したる方に対しましては、その点を考えて金額を多からしめなければならない」

 おそらく誰もが想像した通りの理由だろうが、親王の歳費を多くしてあるのは皇位継承の可能性がより高いからだという。即位の可能性が高い方にはより高い品位が備わることが望ましいので、多額の投資をしておこうという趣旨であろう。

金森徳次郎
田村茂 『現代日本の百人』(文芸春秋新社、昭和28年)より

 先の引用だけでも十分だとは思うが、金森大臣の答弁の続きも一応載せておこう。

「非常に遠い方につきましては、みづからその経済等を自主的にお考えになり得る場面も自然多くなつて来るものと考えられまするが故に、そういうことをも加味しつつ、若干経費の額に差等が起つてもしかるべきものと思う」

 つまるところ、皇族の歳費に関する皇室経済法の規定は、親王がおらず王が現実的な皇位継承者になるという状況をまともに考慮していないのである。想定外の事態がまだ起きていないから問題になっていないだけの「欠陥法」だと評してもよいのではないだろうか。

 思い返せば、譲位特例法が成立するまでの秋篠宮殿下は、新時代の皇嗣としてふさわしい歳費を受けられる保証がなかったが、それも同根の問題だ。次に示すのは、平成29(2017)年4月3日の参議院決算委員会で片山大介議員が述べた意見である。

「私は皇室経済法も変えていく必要があるというふうに思います。皇室経済法は、御存じのように、皇室典範と同じく戦後施行されたものだけれども、やはり今回のようなこと(※傍系皇族が皇嗣になること)は想定をしていなかったんだと思います」

 今の秋篠宮殿下に「定額の三倍」の歳費が認められているのは、このように皇室経済法には不備があるということが国会の共通認識になったからこそだ。しかし、皇位継承順位が高い王の歳費に対して同じように問題意識を抱く政治家は、残念ながらまだ見当たらないのが現状である。

「親王宣下」の限定的復活を検討すべし

 具体的にどうすればこれを改善できるだろうか。解決策として考えられるのは、明治22(1889)年の旧皇室典範により廃止された「親王宣下」の復活くらいしかなさそうだ。

 親王宣下とは、王に対して親王号を与えることができるという、平安時代から明治時代にかけて存在した制度である。

 歴史上最後の事例は、明治19(1886)年に明治天皇の猶子(※名義上の養子)として宣下を受けた東伏見宮依仁親王だ。皇室の伝統によれば、傍系皇族が親王宣下を受けるには、このようにまず天皇もしくは上皇の猶子となる必要があった。

 明治維新前には世数にかかわらず親王になれる家柄として伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家、閑院宮家の四つの宮家があったが、「世襲親王家」などと通称されるこれらの宮家とて、親王号の自動的な世襲を許されていたわけではなかったのである。

「四親王家の王子で、宮家を御相続になる方は、必ず時の天皇の御猶子として親王宣下があります」――下橋敬長『維新前の宮廷生活』(三田史学会、大正11年)

北白川宮能久親王の騎馬像(北の丸公園)。宮内省諸陵寮『陵墓要覧』(昭和9年)に従えば後伏見天皇の「十九世皇孫」という血統ながら、仁孝天皇の猶子として幕末に親王宣下を受けた。

 このような歴史を踏まえたうえでの個人的な意見だが、皇族の養子縁組を本当に認めるのであれば、そのついでに親王宣下を目的とする天皇の猶子も許容したらよいだろう。

 もちろん、大勢の王に対して際限なく親王宣下できる仕組みは採るべきではないし、かつての世襲親王家のように特定の宮家に親王号を用いる特権を半永久的に与えるというやり方も考えるべきではない。

 皇位継承順位第五位までの男子には、実際の世数にかかわらず天皇の猶子という形で自動的に親王号が与えられる――というくらいが適切だろうか。なお、第五位までという範囲は、皇太子に加えて前述の四親王がいた時代を目安にしたものである。

 歳費の範囲内で未来の天皇を育てるのは、親王ですら心もとない。そんな問題提起をしておきながら親王宣下を提案するというのもおかしな話だが、せめて将来の即位が見込まれる王がその身位のまま長く放置されることだけは避けたい。

 秋篠宮殿下が皇嗣になった時に増額されたことは今後の先例になるだろうが、それでは遅すぎる場合もあるはずだ。

真の「安定的な皇位継承」のために幅広い議論を

 一応、現行法制下においても王が親王になる道はある。「王が皇位を継承したときは、その兄弟姉妹たる王及び女王は、特にこれを親王及び内親王とする」と定める皇室典範第7条がそれだ。

 しかし、これだと天皇自身はやはり王としての立場で即位に向けての準備をしなければならない。天皇の甥についても、先述の寛仁親王がそうだったように普通ならば親王であるところだが、この場合はどうやら王のままとされるようだ。

 このことからも現代日本は、傍系皇族が即位することを理論上は想定しつつも、現実には傍系継承に対応できるシステムを十分に構築してこなかったといえる。

 宮家という存在に対し、皇族としての公務の担い手という程度の役割しか求めないのならばそれでもいいのかもしれない。だが、万一の際に新天皇を出すという役割を期待するのであれば、国家百年の計として制度改革を議論すべきではないだろうか。

国会議事堂

 さて、ここまで旧宮家の皇籍復帰案に着目して書いてきた。読者の中には「女系天皇を認めれば傍系継承のことなんか考えずに済むだろうに」といった感想を抱かれた方もおられるかもしれない。

 しかし、仮に女系天皇を認めたとしても、残念ながら天皇が常に一人以上の子を儲けられるわけではない。傍系継承は当然に起こりうるし、その場合には遠縁の王や女王が皇位継承者となることも十分にありえよう。

 男系を堅持すべし、いや女系を容認すべし――。こんな風に皇位継承方法そのものをめぐる論争にどうしても流れてしまいがちだが、真の「安定的な皇位継承」を実現させるためには、それ以外にも考えられることはありそうだ。

 成人された悠仁親王殿下がお妃を迎えられるのは、そう遠い未来のことではないかもしれない。だが、もしも男子がお生まれになったとしても、令和の御代のうちは王でしかない。そんな事態を回避するためにも、国会における幅広い議論を期待したい。


補記

 今回の記事で提案した親王宣下の他、身位は王のままにしておいて親王と同額を支給するという方法も思い付きはしたものの、筆者としては『論語』の正名思想に基づき、親王と同じ待遇を受けるのならば王のままであるべきではないと考えた次第である。

 これを仮に実現させた場合、新たな皇子の降誕によって親王宣下を受けた方の皇位継承順位が一定の基準を下回ったら身位を王に戻すべきか否か――といった諸々の論点も出てくるはずだが、その辺りは慎重な検討が必要であろう。

 ところで、現代の日本人にとって王という身位はもはや、皇親政治を主導した長屋王、平将門の乱に与した興世王、平氏追討の令旨を出した以仁王、憲政史上唯一の皇族首相である東久邇宮稔彦王らによって代表される歴史上の称号になってしまっていると考えてもよいのかもしれない。

長屋王像(南法華寺蔵)

 王の歴史に詳しい赤坂恒明によれば、伏見宮系の皇籍離脱以来、わが国は王の最長不在記録を日々更新し続けている状態にあるという。

敗戦後の昭和二十二年(一九四七)十月十四日、二六人の王を含む伏見宮系の皇族五一人が、皇族の身分を離れた。その後、今日に至るまで、日本国において七十年以上にわたり、王が存在しないという状態が続いている。これは、有史以来、最長の空白期間である。王の不在期間の新記録は、日々、更新され続けているが、この事実を認識している人は、きわめて少ないであろう。

赤坂恒明『「王」と呼ばれた皇族:古代・中世皇統の末流』(吉川弘文館、令和2年)「はじめに」より。

 そう考えると、約80年という長い時間の中ですっかり概念上の存在でしかなくなってしまった王という身位を、現代の政治家がこれまで強く意識する機会がなかったとしても無理はあるまい。

「皇位継承順位が高い宮家に関しましては特段の配慮がやはりあってしかるべきだろうと私は考えております」

 上に示したのは、悠仁親王殿下のご誕生から約半年後の平成19(2007)年2月28日、衆議院予算委員会第一分科会における木原稔議員の発言だ。このような考えの政治家はきっと他にもいるはずだ。継承順位の高い王の待遇についても、問題だと気付かれさえすれば、同志がいずれ現れるに違いない。そう信じたい。

 今回の読者の中にたった一人でもいいから永田町の関係者がいてくれないものか。そんな期待を少しだけしているが、『プレジデントオンライン』という媒体の知名度からすれば高望みしすぎでもないだろう。何にせよ、堂々巡りに陥りがちな皇室制度をめぐる議論に新しい論点を投じることができただけでもまずは上出来としておこう。

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中原 鼎(皇室・王室ライター)
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