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【静岡県の皇室伝承】4.南朝再建運動に身を投じた後醍醐天皇皇子・宗良親王の終焉の地「井伊谷」(浜松市)

井伊谷いいのや」周辺における宗良むねよし親王の伝承地

 徳川四天王の一人・井伊直政公や安政七(一八六〇)年の桜田門外の変に斃れた幕末の大老・井伊直弼公などを輩出したことで知られる武家の名門、井伊家。その揺籃の地である静岡県浜松市の井伊谷いいのやは、人皇第九六代・後醍醐天皇の皇子で南朝再建運動に御身を投じられた宗良むねよし親王の伝説地としても知られている。

龍潭寺りょうたんじ(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1989)

 井伊家累代の菩提寺であると同時に、宗良親王の菩提寺でもある。薨去後の親王が葬られ給うた寺であり、そのご法名である「冷湛寺殿れいたんじでん」から、一時は寺名を「冷湛寺」に改めさえしたと伝えられる。

「井伊家菩提寺」の後ろに「宗良親王菩提寺」とある。

「宗良親王法名冷湛寺殿薨せし時、道政父子の計らひて此寺に葬りしより、親王の法諡に取りて寺名を呼びしを、後今の名に改むといふ」(『静岡県史蹟名勝誌』)。宗良親王は、時の井伊谷領主である井伊道政公の娘・駿河姫(重子)をお妃になさっていたという。(それが史実だとすればの話だが)道政公はそれゆえに井伊一族と同じようにこの境内に葬り奉ったのだろう。

本堂内にあった由緒書き。「由緒 井伊家・宗良親王菩提寺」、「南北朝時代、井伊城で北朝軍と戦った後醍醐天皇王子宗良親王をお祀りしています」とある。
幕末の大老、井伊直弼公がご寄進になったという宗良親王のご位牌。「冷湛寺殿」とある。

 ちなみに堂内には、宗良親王と同じように遠江国に根を下ろされた大覚寺統の「木寺宮家」に連なると思しき女性「東光院大椿貞寿尼大姉」のご位牌も安置されている。

左のご尊牌には「東光院大椿貞寿尼大姉」とある。このご法名は木寺宮家ゆかりの龍雲寺でも確認できる。よく見ると上部に張り紙がしてあり、小さく「木寺宮兄祖」と書いてある。

 宗良親王の薨去後、弟宮にあたらせられる無文元選――後醍醐帝の第十一皇子にして、井伊谷に近い方広寺(臨済宗方広寺派の大本山。「奥山半僧坊」の別名で知られる)の開山でいらっしゃる――が、この寺で葬儀をお営みになったとされる。『静岡県引佐郡誌 下巻』に「宗良親王薨去の時、親王の弟無文選師ここにて葬儀を営み寺後の森中に葬る」とある。

井伊谷宮(井伊谷1991−1)

 明治維新後に創建された、宗良親王をご祭神とする神社である。その敷地は龍潭寺の塔頭の跡であるため、龍潭寺と隣接している。

 境内には摂社として「井伊社」という小さなお社もある。

 井伊谷宮を創建するにあたっては、井伊家がほとんどの費用を負担した。この功績もあって明治八(一八七五)年、南北朝時代に活躍したという井伊道政公とその息子の高顕たかあきら公もご祭神としてお祀りすることにしたのである。

 境内には、御歌が書かれた看板や碑など、生前の宗良親王を偲ばせるものがいくつかあるが、中でも令和二(二〇二〇)年に開館した「史料館」には全国唯一という貴重な宗良親王ご直筆があるので、これだけは拝見しておくことを推奨したい。

【宮内庁治定】宗良親王御墓(井伊谷1991)

 井伊谷宮の境内には、宗良親王の御墓と伝わる宝篋印塔があり、宮内庁の所管地となっている。

 この御墓所が一般に公開されるのは一年のうち六日間だけだ。具体的には正月期間の一月一日から五日、そしてご命日(=井伊谷宮の例祭日)の九月二十二日である。

宗良親王のご法名「冷湛寺殿」が刻まれている。

井伊谷城(井伊谷306)

 草創期の井伊家の居城、井伊谷城。

 伝説によれば、宗良親王におかせられては、信濃国の大河原の山奥で三十年余り過ごされるなど、長期間の中断を挟みつつも、足掛けおよそ五十年にわたりこの城を拠点になさったという。『静岡県史蹟名勝誌』曰く、「山上の小平地は親王の御座所なりと伝ふ」

 なお、ここは尹良親王のご生誕の地でもあるということである。

 元中/至徳二(一三八五)年八月十日、宗良親王はこの城において七十二歳で薨去あらせられたそうだ。

二宮神社(井伊谷306)

 井伊谷城の東麓に鎮座している。かつては三宅氏の祖である田道間守のみをお祀りする神社として「三宅神社」と称していたが、宗良親王の薨去後にその御霊を合祀するにあたって、ご祭神が二柱になることから「二宮神社」と改称したということである。

 拝殿前の由緒書き曰く、「南帝の勅使中院為久卿、中院少将定平朝臣下向、御連枝の方広寺開山、円明大師を御導師として葬送の御儀を執行い、当三宅神社に尊霊を合祀し奉り、爾来二柱の神霊を祭祀するため二宮神社と改称し奉りました」。

 なお当社の社号については、静岡県引佐郡教育会『静岡県引佐郡誌 下巻』(大正十一年)に「二宮とは後醍醐帝第二皇子なるを以て申す」とある。

 今日、一般的に後醍醐天皇の第二皇子とされるのは世良ときよし親王だけれども、『太平記』の巻三一「笛吹峠軍の事」の中に「先朝第二宮上野親王」という表現があるように、宗良親王を「二宮」と申し上げる例は確かにある。

足切観音堂(井伊谷308)

 二宮神社の目の前にある。宗良親王が篤く尊崇なさったという御念持仏(※私的な礼拝のために身近に安置する仏像)を護持すべく建てられた御堂だ。

 この「足切観音」は、北朝方との戦いに明け暮れていらっしゃった親王の御身代わりになられたと伝わっている。御堂の前の由緒書きは、その伝説をこう物語っている。

 時は延元四年(一三三九)、このあたりは井伊道政を擁し、南北両軍攻防の鎬をけづっておりました。そんな或る日、宗良親王は乱戦の中、敵の流れ矢を受け落馬しました。馳せつけた従者がお介抱をもうしあげたところ不思議や傷の所には跡も形もありませんでした。
 親王はその夜、観音を夢見たので是は正しく日頃信じる観世音の効力によるものとして、翌朝とく起きて参拝、厨子の扉を開けてみればこれ如何に、観音の片足は鮮血に染まり痛々しきお姿ゆえ、さてこそ吾が身替りに立ち給いしかと、涙と共に益々信仰を高め終生の守り本尊として祈願なされたと伝えられております。

 なお、この御堂を護持するために二宮山円通寺という寺が創建されたという。ここでも「二宮」という言葉が出てきたが、この山号も宗良親王を強く意識したものなのだろうか(※円通寺は現在「晋光寺」と改称している)。

井伊谷周辺の関係地

二宮神社(北区細江町気賀8353)

 宗良親王の妃・駿河姫をお祀りしており、境内にはお二人の間にお生まれになった尹良ゆきよし親王をお祀りする若宮神社もある。

 宗良親王の妃・駿河姫を祭神とする
 南北朝時代の初期、後醍醐天皇の皇子宗良親王は、南朝勢力の増強をはかって、井伊谷(引佐町)の豪族井伊道政のもとに滞在していた。親王は道政の娘駿河姫を妃とし一子尹良親王をもうけたといわれている。
 延元三年(一三三八)一月(三月の説も)、親王は、欧州からの北畠顕家の軍と浜名の橋本(新居町)で合流し、京都に上ろうと井伊谷を出陣した。駿河姫も親王を見送るためこの地まで来たが、急病になって翌日十日に亡くなった。近くの金地院で火葬をし、親王の御座所のあった所に社殿を建て、姫の持っていた鏡を祀って二宮神社とした。境内者の若宮神社は尹良親王を祀っている。

平成元年三月二十日 細江町教育委員会

定光山金地院(気賀8027)

 駿河姫を火葬した地で、姫を開基と位置づけている。

寺には「金地院殿慶岩寿永大禅定尼」という位牌があります。山門の西の果樹園の中に「岩神」という石碑があり、その周辺に姫は葬られたと伝わっています。


【参考文献】
静岡県『静岡県史蹟名勝誌』(静岡県、大正十年)
静岡県引佐郡教育会『静岡県引佐郡誌 上巻』(静岡県引佐郡、大正十一年)
静岡県引佐郡教育会『静岡県引佐郡誌 下巻』(静岡県引佐郡、大正十一年)
静岡県『静岡県人物志』(静岡県、大正十三年)
静岡県誌編纂所『静岡県誌』(静岡県誌編纂所支所、昭和九年)

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中原 鼎(皇室・王室ライター)
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