【小説】『玉葉物語』前日譚「竹の園生の御栄え」第五話「聖断」(終)
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは関係ありません。
第五話「聖断」
(一)宸憂
一
身分を捨てたいというお考えに至られるまでの金枝玉葉の御悩みも、万々が一にも皇族がおいでにならなくなったら困るという政府の言い分も、それぞれよく理解できるものであったから、いつの世も上御一人におかせられては、宸襟を悩ましていらっしゃった。
平成の大御代以来、歴代の帝は御年七十五にならせられる頃には皇太子に位をお譲りになるのを常となさっていたが、応中の御代からはまたしても、仙洞御所のご用意などをせねばならなくなってしまうがために、譲国の儀をすっかり控えられるようになった。
もちろんご列聖とて、ただお手をこまねいていらっしゃったわけではない。わけても好学の天子であらせられた清明天皇には、お若い頃から宮内庁の所蔵する秘本の山をお手に取らせられて有職故実をご熱心に研究なさり、御年七十六にしてようやく至尊の宝位に即かれるや、
「朝家への尊崇の念を再び高めるためには、とにもかくにも一人でも多くの皇族に公務を担わせなければならない」
とのご信念のもとに、諸王が「使王」として伊勢の神宮へと遣わされていた古例をお手本に、諸王殿下を神宮のみならず勅祭社や歴代の天皇・皇后などの山陵への奉幣使にお任じになったり、またご自身の即位礼正殿の儀に際せられては、高御座の御帳を開く「褰帳命婦」のお役目を果たす人について、
「平安の古には二名の女王に任せて、『褰帳の女王』などと言ったという。同じようにはさせられないものだろうか」
と政府にお働きかけになったりと、諸々の改善策を矢継ぎ早にお打ち出しになった。この老帝におかせられては、余計に費用が必要になるというので結局は断念されたことだけれども、近古までに途絶してしまった伊勢と賀茂の「斎王」までをも再興させようとお考えにさえなったのである。宮中改革に対せられるそのご姿勢たるやまるで、
「朕が新儀は未来の先例たるべし」
と仰せになったと南北朝時代の『梅松論』に伝えられる後醍醐天皇や、あまりにも急進的な改革を推し進めたがために「皇帝革命家」などと呼ばれた神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世――プロイセン王フリードリヒ二世に「第一歩より先に第二歩を踏み出す」と揶揄された――のごとくであらせられたけれども、それでもなお焼け石に水の弥縫策でしかないといったありさまなのだった。
人々は概して新たな君主がすでに老いた人物であることを歓迎しないものだが、この帝には当てはまらなかった。即位礼正殿の儀の当日、式典へのご参列が叶わなかった第三代生駒宮の貴礼王殿下が、殿邸にてテレビ中継をご覧になりながら、
「この英邁なるお上ならば、何やら我々には想像だにできないような解決策をきっとお考えになるはずだ。朝家再興の時はもはや目の前に迫っているに違いない!」
とお目を輝かせて仰ったように、竹の園生にいらっしゃる方々の多くは、この清明の御代をお迎えになってからというもの、大きな変化を期待せずにはいられないご様子だったのだが、ご践祚の時点でお年をかなり召していらっしゃったこの帝には、残されたお時間があまりにもお少なかった。ご在位わずか五年足らずにして、決定的なことは何も成すことがおできにならないままにあえなく崩御あらせられたので、諸殿下のご落胆ぶりはまことに筆舌に尽くしがたいものがおありだった。
二
清明の帝の崩御に際せられ、朝家で最もお悲しみになったのは、疑いようもなく第一皇子にあたらせられる宝享の帝でいらっしゃった。この帝におかせられては、ご肉親を亡くされただけに悲しみはもちろん他の殿下方よりもお深かったし、ましてや帝王学を修め給うべき御身としてお生まれになったことから、宝祚の行く末を金枝玉葉の方々に輪をかけて強く憂えていらっしゃったので、
「国が肇まって以来、『末代の賢王』と評された堀河天皇や『末代の英主』と称えられた後宇多天皇など、朝家には賢主としてご高名なお方が大勢いらっしゃったが、君が代の歌詞にあるように本当に八千代まで続くとしても、この先、お父さんほどのお方はもう二度と現れまい」
と仰って、しばらくは公の場にお出ましになるのをお引き留め申し上げたほうが良いと思われるほどにお目を赤く腫らされた。また、自分は稀代の賢主のご遺志を引き継ぐことができるような器ではない、としてすっかり恥じ入られて、
「幕末の安政五年、孝明天皇には『所詮微力に及ばざるゆえ』として、幼児とはいえ皇子がおられたにもかかわらず、伏見宮家の貞教親王、有栖川宮家の幟仁親王、熾仁親王のいずれかに譲位したいと言い出されたと聞く。この難局に当たっては、単に先帝の長男であるというだけで無能な朕ではなく、誰かもっと有能な皇族に即位してもらうほうが良かったのではないか」
とまで仰せになったのだった。
ところでこの宝享の御代を迎えて間もない頃、宮仕えの人々の間で、ある奇妙な噂が流れるようになった。皇太后陛下のお住まいである大宮御所で、若い女官が白い女の幽霊に出くわしたというのである。初めのうちは一笑に付されていたけれども、次第に目撃者が増えていった。当時、皇太后陛下はほとんど寝たきりであらせられ、畏れ多くも幽霊などと見間違うことはまずありえなかったから、それでは幽霊に出くわしたという人々はいったい何と遭遇したのか――ということで、宮中はまさしく蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまった。
『続日本紀』の宝亀八(七七七)年二月十九日条に「辛未、大祓す。宮中に頻に妖怪有るが為なり」とある。このように、わが国の朝廷では古くから、鵺や玉藻前、入内雀など、数多の妖怪の類が目撃されてきた。白い女の幽霊というものが現れた例は見当たらないけれども、遠く異朝をとぶらえば、ヨーロッパの宮廷には、君家で慶事や凶事があるときに「白い貴婦人」などと呼ばれる幽霊がしばしば現れたという言い伝えがある。特にドイツ・プロイセン王家たるホーエンツォレルン家にまとわりつく幽霊が昔から有名で、王家の中から死者が出る前に姿を見せ、そして最後には王朝の終焉を告げるかのように現れたという。
古い噂によると、第一次世界大戦――かの栄光あるハプスブルク=ロートリンゲン家が玉座から降ろされる革命の原因となった――が勃発したばかりの頃には、オーストリア=ハンガリー君主国の宮廷にも現れて、不吉の前兆としてたいへんな騒ぎになったということである。彼女が白い手袋をしていれば皇族の誕生を意味し、黒い手袋をしていれば皇室に属する誰かに死が差し迫っていることを意味したとも伝えられる。
ヨーロッパにおいては王朝が滅びる前にも宮廷に出現することがあったという「白い貴婦人」が、明治維新以来の欧化により、この皇国でも見られるようになったのであろうか。もしもそうだとすれば、これはいよいよ朝家の終焉を告げるものなのではあるまいか――。
宮中にはいまや、そのような風説を立てる者さえあった。たとえ箝口令を敷いたとしても、人の口に戸は立てられない。やがてこの噂話は巡り巡って天聴にまで達してしまった。
「そのように噂していた者どもを咎めてはならない。朕も同じ意見である。非情なようだが、今いる皇族のかなりの数に抜けてもらわねば、もはや朝家は持ちこたえられないであろう」
宝享の帝におかせられては、践祚あそばされてから程なく、宮内庁の幹部職員の中に、
「今の陵墓地はだいぶ空き地が無くなってきたから、そろそろ新たな陵墓地を準備しておくべきだろう」
などと唱える人々が少なからずいること、そして実際に関東地方の広大な土地買収を前提とする新たな陵墓地の造営計画が密かに立案されていることを知らされ給うていたのだった。
「将来の世代のためにと新たな陵墓地の準備をしたところで、このままではそこを使い始める前に、身分を剥奪されて寂莫たる山中の苔に埋もれることになってしまうかもしれないというのに――」
三
宝享元年の秋、清明帝のご治世の終わり頃から内閣総理大臣を務めていた久松馨は、新たな御代となってから初めての内奏に臨んだ。さて、政についての報告がひとしきり済むと、久松首相の話はこのように、新たな御代における御所をどうなさるかという、より私的な事柄に及んだ。
「これまで東宮御所だった今の御所には、ゆくゆくは皇太子殿下のご一家がお住まいになるそうですね。宮内庁長官からはまだ何も聞いていませんが、先帝陛下の御所には皇太后陛下が引き続きご居住になるはずですから、お上にはやはり新しい御所を建ててそちらにお住まいになるのでしょう?」
古くから「君臣の別」という言葉もあるけれども、宝享の帝にとらせられては、久松首相は気心のよく知れたご幼少の頃からのご学友であったので、他に人目がないこの内奏の場に限っては、たいそう気安くお接しになった。歌謡集『梁塵秘抄』を編纂なさるほどに今様に熱中された後白河天皇の、貴賤を問わない今様の遊び相手たちに対せられるご態度も、きっとこのようなものであったのだろう。帝には、将来のお住まいについて、お笑いになりながらこう仰せになったのだった。
「新しい御所を建てるのには金が掛かるからなあ。応仁の頃、後土御門天皇は足利義政公の御殿に同居されたと聞いている。朕もそれに倣って内閣総理大臣の公邸でしばらくお世話してもらえないものかなあ、なんて思っているのだが、どうだね久松」
人皇第百三代・後土御門天皇におかせられては、応仁の乱が勃発するや、兵火をお避けになるために征夷大将軍・足利義政公の御殿である室町第を里内裏となさって、およそ十年にわたってお暮らしになった。なお、義政公にはしょっちゅう酒宴を開いておられ、その場にはほとんど常にこの帝がご同席なさっていたそうだ(甘露寺親長『親長卿記』)。
しかしながらこれは、あくまで応仁の乱という緊急事態の中での非常措置に他ならない。久松首相はこれに対し奉り、
「お上、ご冗談を仰らないでください」
とだけ奉答したが、応仁の頃を先例として臣下と同居なさるというのは、かの大乱の最中にも等しい状況にあると宣言なさるようなものなので、それも当たり前のことなのだった。
「冗談に聞こえたかね、久松」
「ご冗談でないのでしたら、なおさら困りまするぞ」
「中等科の修学旅行の時におまえと同じ部屋で寝たことを、朕はよく覚えている。あの夕べのような楽しい語らいの時間をまた持ってみたいものだと、朕は常々思ってきたのだよ。お母さん、皇太后陛下ももう相当なご高齢なのだから、大宮御所の存続もせいぜい数年だろう。その間だけでよいのだよ、どうしても駄目か」
「しかしですね、『殿下』。個人的にはそうしてみたいという気持ちも少しございますが、もしもそうすれば私は『天皇陛下を蔑ろにしている』などと愛国者を名乗る者どもに糾弾されてしまうでしょう」
君主が臣下と同じ部屋で寝泊まりをなさるというのは、どんなに民主化が進んだ社会になったとしても考えがたいことである。尤も、かの明治大帝におかせられては、深酒が過ぎて侍従らの詰所だった御学問所で彼らと雑魚寝してしまわれることもあったそうだけれども、これはまさしく例外中の例外なのであった。
あれこれと少年時代の思い出話に花を咲かせ給うた後、もうそろそろ終了予定時刻になろうかというところで、宝享の帝にはこうお語りになった。
「来年の秋には何百億円もかけて即位礼をやらねばならないのが今から憂鬱でならなかったが、今日はずいぶんと楽しかったよ。ありがとう」
「即位礼が憂鬱、でございますか」
「長い時間をかけて不満を落ち着かせて、即位礼でまた不満を高める、ここ数代の帝はその繰り返しなのだからね。何という名前だったか、大昔の侍従が日記に書いていた[1]ように、いっそ洋装での式典にできれば安上がりでよいのだが――」
久松首相これに応えて曰く、
「儀礼の簡素化でございますか。確かに、もはや欧州でも英国以外では戴冠式をやっておらぬと伺っております。スペイン王国などのように、新君主が議会で宣誓するだけの国もあるとか。ですが、本邦ではなるべく伝統の通りに致しませぬと、式典委員会の長を務めることになる私めの命が危うくなります」
「洋装にて式典を執り行うことが朕の心だ、と言っても駄目か」
「仮にそうしたとしても、政府が嘘をついているだとか、政府が天皇陛下に原稿を押し付けてお言葉を強制しただとか、そんなようなことを言って絶対に信じない者どもが必ずや出て参りましょう」
「それはつまり、朕が自らの意思でそうさせたのだということが、誰の目にも明らかであれば良いのではないかな――」
その刹那、部屋の外にいた宮内庁職員がドアをノックした。それを耳にした久松首相は、帝の最後のお言葉がほんの少しだけ気に掛かったけれども、古くからの宮中のしきたりに従って、
「これにて内奏を終了いたします」
と言って席を立たなければならなかった。そして彼は、政務のために多忙な日々を送らねばならないがゆえに、この内奏の仕舞際に何やら意味深長なお言葉がおありだったことを、しばらく後のある時まですっかり忘却してしまったのであった。
四
イギリス王ウィリアム四世――大英帝国の象徴的な存在として知られる、あのヴィクトリア女王の伯父にあたる――は、生来の慎ましげな性格から、派手好きな兄王のジョージ四世とは打って変わって、戴冠式を望まなかったらしい。これはジョージ四世の崩御を受けて即位したばかりの一八三一年、庶民院解散に立ち合った時の出来事だそうである。戴冠式を拒否したがったこの王は、更衣室で王冠を頭上に乗せて、首相のチャールズ・グレイ伯爵にこう言い放ったそうだ。
「ほら見ろ! 戴冠式は済んだぞ」
宝享の大御代にはこれによく似た出来事があったのだが、このウィリアム四世の逸話を参考になさったものなのか、あるいは偶然の一致にすぎないのか――。
かの内奏から数カ月が過ぎた宝享二年の一月二十日、新帝におかせられては、例年のごとく参議院での国会開会式にご臨場になるために、国会議事堂へと行幸あそばされた。
「天皇陛下のご臨席を仰ぎ、第五百三十六回国会の開会式を行うに当たり、衆議院および参議院を代表して式辞を申し述べます――」
玉座に座られた帝が見そなわす中で、議長席から衆議院議長が厳粛に式辞を述べた。そして彼が玉座の新帝に深く一礼し、事務局席のほうへと移った後、侍従長が「お言葉」が記された書状を持って、玉座の前の階段を、左足から一段ずつ恭しく登った。書状をお受け取りになった宝享の帝には、文面に従ってこう述べられた。
帝におかせられてはその後、書状をお手ずからくるくると丸められ、それを受け取りに玉座の前まで登ってきた衆議院議長に手渡された。
さて、国会開会式といえば、帝国議会の開院式において丸められた勅書を遠眼鏡となさって、議員席をお見渡しになったとされる大正天皇の「遠眼鏡事件」が知られるが、まさにこの直後、かの大正天皇の事件をも優に上回るであろう日本憲政史上に残る重大事件が起きたのだった。
衆議院議長が後ろ向きに降りて、元の事務局席のほうに戻ったので、参議院議長がご還幸になる帝の先導をしようとした、その時の出来事であった。帝には、お服の中に隠し持たれていた別の書状を取り出されて、式典に出席した国会議員たちが驚きと戸惑いを隠せない中で、こうお読みになったのである。
それはまるで、秋に予定されている「即位礼正殿の儀」の際に高御座から発せられるお言葉のようであった。帝がお言葉を述べられる機会としては、全国戦没者追悼式など数多くあるけれども、国会開会式でのお言葉だけは、政治的中立性を保つために閣議決定を経るものだ。そのような慣習があるというのに、その場で政府のまったく与り知らないことまでお述べになったのである。波紋が大きく広がるのも無理もないことだった。千三百人近くいる国会議員たちの中からは、
「まだお若く見えるけれども、すでに六十歳を超えていらっしゃる。あそこが即位礼の舞台かと勘違いなさるほどに呆けてしまわれているのだろうか」
などと帝のご体調をご案じ申し上げる声もいくらか上がった。
「今上陛下の御代はまだ始まったばかりだけれども、あのご様子では摂政を置いたほうが宜しいのではないか」
という声を上げる者すらいる中で、久松首相はその日のうちにこの帝のご名誉をお守り申し上げようとして、慣行に反する極めて重大なタブーだとは知りつつも、
「今回の出来事は、歴代の政府に根本的な原因があります。皇室に投じられる税金のことを、天皇陛下をはじめとする皇室の方々がどんなに気にかけておられたかを、まず国民の皆様には知っていただきたい――」
と、内奏の時のお言葉をマスメディアに明かして、実際にかなりの問題になったものの、
「久松首相こそは、下手をすれば内閣が吹き飛んでしまう虞すらあると知りながらも天皇陛下を第一にお守りしようとした天下の大忠臣だ」
として、一部の人々からは思いがけない賞賛を集めることになった。ともかく、かの御乱行事件に起因する長年の問題で、この宝享の帝ほどに宸襟を悩ましておられたお方は、まずいらっしゃらないであろう。
(二)聖断
一
初めて目撃されて以来、白い女の幽霊は大宮御所に幾度となく現れ続けていたが、それは朝家の終焉ではなく皇太后陛下の崩御を告げるものだったのであろうか。
後世に「即位礼参議院の儀事件」と呼ばれるあの重大事件からわずか十日後の夕べ、皇太后陛下におかせられては御年八十一にて、参議院本会議場での御ことは露知らずに、あたかも静かにお眠りになるかのように崩御あらせられたのだった。
皇太后崩御から半月ほどの時が流れ過ぎたある日のことである。宝享の帝におかせられては、皇后陛下や皇子殿下方、弟宮にあたらせられる親王殿下方、そして宮内庁侍従職の者どもをお伴いになって旧大宮御所に行幸され、いまだにお片付けが十分ではない先帝・清明天皇ならびに故皇太后のご遺品の整理をなさっていた。
ご在位こそ五年ほどとお短かったけれども、長く皇太子でいらっしゃった先帝におかせられては、親しく交流されていた外国の君家からの贈り物や、献上された国内の伝統的な名産品などを、まさしく山のようにご所持されていた。また、書庫には好学の君にふさわしく、数万冊にものぼる膨大な書物が収められていたのだった。
宝享の帝におかせられては、その書庫内へと玉歩を進められるや、
「お父さんはたいへんな読書家でいらっしゃったが、それにしてもずいぶんお集めになったものだなあ」
と感慨深げに仰った。そうして、お近くにあった書物をお手に取られて、少しの間ご覧になった。日頃のお疲れも溜まっておられるのだろう、大きくあくびをなさり、そのことを恥ずかしく思われて、誰にも見られていないだろうかとふとご周囲をお見回しになった刹那――短く悲鳴をお上げになった。
いつからそこにいたのであろうか、純白のローブ・デコルテに透き通った身体という、明らかにこの世のものではなさそうな女が一人、無言で大きな本棚の一つを見つめながら立っていたのである。
この女の幽霊がヨーロッパにおける「白い貴婦人」のような存在であるとするならば、また死人が出ることを告げに現れたのだろうか。そしてこの場に現れたということは、次に死ぬべき人はすでにここにいるということなのだろうか――。
初めからその場に居合わせた方々については、わざわざ語るまでもないことだろう。騒ぎを聞きつけて馳せ参じた宮仕えの人たちも、恐怖のあまり、顔面蒼白になって失神したり、みっともなく泣き喚いたりと、手の付けようがないありさまになってしまった。
だが、よくよく見るとその幽霊の顔は、竹の園生の方々やある程度の地位にある宮内庁職員ならば絵画や写真、映像などで知っているのが当たり前の大昔の皇后そのものであった。そのことに気が付かれた帝が、
「理由もなく子孫を害そうとするご先祖様がおられようはずがない。きっと朕たちに何か伝えたいことがおありだからこそ、こうしてお現れになったのであろう」
と奮って仰せになるや、それはにっこりと微笑んで、まさしく煙のように消えてしまった。
「この大きな本棚を見つめていらっしゃったようだったが、あるいはここに何かがあるのだろうか」
帝におかせられてはそう思し召して、弟宮にあたらせられる衣笠宮殿下、小倉宮殿下、音羽宮殿下らをお召しになっては、手分けをなさってその本棚を隅々までお検めになった。すると、先帝がお使いになっていたらしい十数冊の古ぼけたノートが見つかったのだった。とりわけご長弟の衣笠宮殿下には、そのページをしばらくお捲りになるや、ご興奮を隠せないご様子にならせられた。
「これこそはまさに天啓というべきだ。これさえあれば、先帝陛下のご遺志を受け継ぐこともできるだろう!」
それらのノートには、清明天皇がお考えになっていた皇室改革の私案が、「斎王」の復活のような思わず目を疑うものまで、びっしりと書いてあったのである。
歴史を紐解けば、皇家があまりにもご繁栄になりすぎてしまった時、畏くも列聖におかせられては、皇族方が国庫を圧迫してしまわないために、ご即位の見込みがない方々を臣籍に降下させ給うてきた。
たとえば、実に五十人もの皇子女をお儲けになった人皇第五十二代・嵯峨天皇におかせられては、弘仁五年五月八日に詔を発せられて、八方の皇子女殿下に源朝臣の姓を下賜なさったが、その理由は『類聚三代格』にある通りである。
最終的に嵯峨天皇の御子としては、皇子十七人、皇女十五人の合計三十二人が源姓を賜っている。このように臣籍に降下させるのではなく、皇籍には留まってもらいつつ民間で自由にやらせようという清明天皇のお考えは、朝家のこれまでの制度とは大きく異なるものであった。
欧州のいくつもの国に実例がある以上、もちろん宮内庁内部でもこれまで検討したことがまったくない案ではなかった。幾度も俎上に載せられたことはあったのだが、数多ある官公庁の中でも特にこの庁内に根強い先例主義により、浮かんではそのつど葬られてきたのである。
およそ百年前の御乱行事件の頃、皇族はすでに今と同じように大勢いらっしゃったけれども、それほど非難の声が強いわけではなかった。だから、何もせずともきっとじきに天下泰平の時が戻るだろう――宮内庁のお偉方は、自分自身にそう言い聞かせてもきたのだった。
故父帝の私案をご覧になった帝におかせられては、ただちに一人の侍従をして宮内庁長官を召さしめ給うたのだが、駆け付けてきた彼は、これを少し拝読すると次のように奉答した。
「海外の皇族・王族には、ファッションモデルをおやりになったり芸能界で活動なさったりする方もおられるわけです。もしもそのような活動をされる皇族が出て参りますと、皇室全体の権威が揺らいでしまう虞がございます。また、皇族が悪徳企業の広告塔になってしまわれて、皇室に累を及ぼすようなことがあってもいけません。そのような考え方で、採用には至らなかったものでございます」
それを聞こし召した帝には、敬慕していらっしゃった故父帝をも「考え無し」だと否定されたようにお感じになって、珍しいことに感情を昂らせながらこう仰せになった。
「諸王を自由にさせて朝家に累が及ぶことがあってはならないとは言うが、彼らに何もさせずにいることで、もう朝家に累が及んでいるではないか。将来に禍根を残さぬようにというのは聞こえは良いけれども、そなたらの目は『今』を見ることができないのか。わからぬのか、御稜威は今すでに衰えているのだぞ!」
悲しむべきことに昔から宮内庁の役人は、政府の顔色を窺ってばかりで、朝家の方々が何と仰ろうともほとんど拝聴する耳を持たない。しかし、幸いにしてこの時に首相の椅子に座っていたのは、当世随一の忠臣としてにわかに持て囃され、「楠公の再来」などと称えられることさえあった久松馨だった。数日後、帝のご次弟の小倉宮殿下におかせられては、とあるご公務でこの久松首相とたまたまお顔を合わせられた際、これ幸いと事の顛末をお話しになったのだった。
「そういうことでしたら、この久松めにお任せください。不肖の身ながら、政治生命を賭してでもお上の御為に尽力させていただきます」
朝家への尊崇の念を取り戻して、譲位という伝統を無事に復活させることができたならば、いずれは御位をお降りになった旧友との交流の時間を多く持つことができるのではないか――そんな期待が久松首相の胸中にまったくなかったとはいえない。たとえいかなる目的があったにせよ、彼は確かに力を尽くして、とうとう先帝のご悲願を実現させたのだった。
二
都内の桜がすでに花を散らしつつあった宝享四年の三月下旬、帝におかせられては、皇太子殿下を始めとするおよそ五十名のお近しい皇族方のみをお伴いになって、いつも一般参賀が行われる場である皇居・長和殿のベランダにお立ちになった。
もちろん新年の一般参賀でもなければ、天皇誕生日の一般参賀でもないのだが、雲の上の方々がお出ましになったその時、すでに二千人ほどの人々が長和殿の前の広場である「東庭」に集まっていた。それでいて、日の丸の旗を振る者たちも、荒々しく万歳を唱える者たちもいない。それもそのはずで、帝の眼下に集った約二千人の人々というのは、ただの一人の例外もなく金枝玉葉の貴い御身の方々なのだった。
いつの頃からだったか、天壌無窮の朝家があまりにお増えになりすぎて、一堂に会することのできる場所が他になくなってしまったというので、菊栄親睦会の大会のような皇胤の方々のお集まりがある場合には、ほとんど常にこの東庭を用いるようになっていたのである。
さて、宝享の帝におかせられては、一般参賀の時と何ら変わらないように据え置かれたマイクの前へとお進みになった。そうして、懐中より一枚の紙を取り出されて、
「皆さんには来月から、新しい生活を送っていただくことになります。昭和二十二年に五十一名の方々が皇籍を離脱された際には、皇族としての最後の思い出に晩餐を共にしたと聞いています。これだけの人数にもなると食事を共にするのは難しいですが、今回は昭和の時とは異なり、皇籍を捨てさせずに済むのですから、こんなに嬉しいことはありません」
と読み上げられた。
世の中には、皇族のほとんどは帝とのご血縁が薄くなってしまっており、今の天皇陛下にとらせられては他人も同然の方々だ、などと訳知り顔で語る者もいるけれども、これは明確なる誤りである。明治三十七年、日露戦争が勃発してから間もない頃に、「大帝」との誉れ高いかの明治天皇におかせられては、次のように和歌をお詠みになった。
列聖におかせられては、民草を「大御宝」や「赤子」として大事に思ってこられたし、外国の人々をも同胞のように思ってこられたのだ。そんな歴代の帝には、同じお血が確かに流れていらっしゃる諸王殿下に対せられ、格別の情をお抱きにならないということなど、あろうはずもないのである。
長和殿のベランダからお言葉をお述べになるというのは、あたかも民草に対せられるがごときであらせられたが、これは、とにかく大勢いらっしゃる金枝玉葉の方々の中には帝のお姿をろくに拝見できない方も出てしまわれるだろうというご配慮からのものなのだった。この後、宝享の帝におかせられては、わざわざ東庭までお出ましになって、諸王殿下の間にお入りになり、日が傾くまで親しくご歓談になった。
有栖川宮殿下に対せられて曰く、
「有栖川さんのところは歴史的に有名な宮家の名跡を受け継いだから、さぞ身が引き締まる思いだろう」
また白河宮殿下に対せられて曰く、
「白河さんのところでは次男がいただろう。このような機会はまたとないのに、どうして連れてこなかったのかね。そうか、風邪では仕方がないな」
竹の園生の末葉の方々の中には、拝謁の機会を賜ることが一年に二、三度ほどしかおありではないというお方も少なからずいらっしゃった。けれども、彼らはこの時、このように親しくお話になる帝に対せられて、
「ただ昔の天皇の血を少し引いているというだけの自分のような愚か者を、お上はこれほどまでに気にかけてくださっていたのか」
と随喜の涙をお流しになって、たとえ民間でどのような困難があろうともこのお上を辱め奉るような真似だけは決してすまいぞ、と天地神明に固くお誓いになったのだった。
言わば「宗家」の生き残りのために切り捨てられた形になるわけだから、宮様方はきっと憤慨しておられるに違いなかろう――。世間にはそんな下衆の勘繰りをする者も少なからずあったが、彼らの予想に反して、諸王殿下におかせられては、口々にこのようにお応えになったのである。
平安の世には、四世王の清忠王、三世王の清胤王のように、いまだ皇親の範囲内にましませども、藤原氏の一門などに家人としてお仕えになったり、官人としてご出仕になったりする諸王が少なからずいらっしゃった。だから自分たちのような末端の皇族が汗水垂らして働くというのは、わが国の歴史に照らしても何もおかしいことではない。
朝家から枝分かれをして、同じように天皇のお血を引くはずの源氏の方々についても、悲惨さは同様でいらっしゃった。かの『源氏物語』の第十九帖「薄雲」の中にも、
「一世の源氏、また納言、大臣になりて後に、さらに親王にもなり、位にも即きたまひつるも、あまたの例ありけり」
とあるように、一世のお方ならば、栄達をお重ねになった後でさらに皇族にお戻りになった例は大勢あった。「位にも即きたまひつる」一世の源氏の例は、実際には「源定省」のお名を持っていらっしゃった宇多天皇くらいしかおいでにならないが、ご即位までなさったお方も確かにおいでだった。
しかしながら、たとえ皇胤であろうとも二世以降の方々とならせられると、時の帝からのご血縁がどうしても薄れてしまうせいで、摂関家のご一門や新たな一世の源氏の方々の陰に埋没してしまわれるお方がほとんどでいらっしゃったのである。
そんな彼らに比べれば、自分たちはいつまでも皇族という身分でいられるだけありがたいと思わなければならない――と。
三
何分にも王殿下は山のようにいらっしゃったから、世間の人々はそれほど物珍しさを覚えなかった。それゆえに、宮様方が悪徳企業の広告塔になってしまわれることを宮内庁では特に恐れていたのだけれども、すべては杞憂に終わった。
珍しくないとは言っても、皇族を同じ職場にお迎えした人々はさすがに、すっかり恐縮しきってこれでもかと丁重に奉ったので、上司と部下という上下関係も初めのうちはただ名ばかりのものであったが、「慇懃無礼」という言葉の通りにお感じになったのであろうか、諸王はみな特別扱いをお嫌いになり、役職相応に接してほしいとありがたくも仰せになったから、みな努めてそのようにして、じきに慣れていった。
いったいどちらの殿下が仰ったのだろうか、次のお言葉などは、この頃の社会の変化をよく象徴するものとしてマスメディアに持て囃されて、自分の家系図を調べたがる人々を大勢生み出したものである。
「これまで意識していなかっただけで、あなた方の中にも源氏の末裔だという方が何人もおられるはずです。どうか私のことも、そのようなものとして扱ってください」
新たな生活を送られるようになった諸王の中でも、最も皇位継承順位が高かった明石宮殿下におかせられては、ある時、新聞社のインタビューに応じられて、次のように仰った。
「昭和の戦争の後、当時皇太后でいらっしゃった貞明皇后は、伏見宮のお血筋の方々が皇籍をお離れになるに際せられ、こう仰ったと聞きます。『これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまは少し良すぎました』と。我々のような諸王はそもそも、近代になってから前例のないほど高い権威を帯びるようになった存在にすぎません。昭和になっても古き良き平安時代の形に戻しきれなかったことを、ようやく戻すことができたというだけの話なのです」
それからどれほどの歳月が流れたのか、高貴な諸王殿下が俗世でお働きになっていらっしゃる光景がごく当たり前に見られるようになった頃――また皇后陛下のご懐妊が報じられ給うたけれども、それを耳にして嫌な顔をする民草はもはや一人としていなかった。
【脚注】
[1]長く昭和天皇の侍従を務めた小林忍は、日記にこう書き残している。「諸役は古風ないでたち、両陛下も同様、高御座、御帳台も同様。それに対し、松の間に候する者のうち三権の長のみは燕尾服・勲章という現代の服装。宮殿全体は現代調。全くちぐはぐな舞台装置の中で演ぜられた古風な式典。参列者は日本伝統文化の粋とたたえる人もいたが、新憲法の下、松の間のまゝ全員燕尾服、ローブデコルテで行えばすむこと。数十億円の費用をかけることもなくて終る。新憲法下初めてのことだけに今後の先例になることを恐れる」
【参考文献】
・倉本一宏『公家源氏:王権を支えた名族』(中央公論新社〈中公新書〉、二〇一九年)
・赤坂恒明『「王」と呼ばれた皇族:古代・中世皇統の末流』(吉川弘文館、二〇二〇年)
・石原比伊呂『北朝の天皇:「室町幕府に翻弄された皇統」の実像』(中央公論新社〈中公新書〉、二〇二〇年)
・倉本一宏『平氏:公家の盛衰、武家の興亡』(中央公論新社〈中公新書〉、二〇二二年)