【小説】『玉葉物語』第一話「流転の若宮」(前編)
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは関係ありません。
第一話「流転の若宮」(前編)
一
いったいどの御代のことだっただろうか。長く御子に恵まれていらっしゃらなかった皇后陛下にご懐妊の兆しがおありだという報道があってからというもの、津々浦々の民草は誰も彼もが、ご出産の時が待ち遠しく思えてならなかった。
御子をその御身に宿しておいでになる皇后陛下を除けば、この時分、その瞬間を最も心待ちにしていたのは、やはりご在位の帝でいらっしゃった。その年の天長節のことである。畏くもこの帝が紫の雲の御腹に御耳を当てられて、
「おお、蹴った、蹴ったぞ。やんちゃ息子め、いまだ生まれてもいないうちからこの父を蹴りおったぞ」
と満面の笑みでお燥ぎになるというたいそう珍しい映像を宮内庁が公開した時、それを拝見した民草は、いずれお生まれになるのが日嗣の御子であることを事前に知らされれば狂喜しそうなものだが、父とならせられる帝のあまりのお喜びように一歩も二歩も引いて、みな一様に微笑ましく思ったものだった。
天長節に先立っての記者会見において、この帝には、次のように仰せになった。
「早く生まれすぎると宜しくないということは言われるまでもなくわかっているけれども、素直な気持ちとしては、やっぱり今すぐにでも生まれてきてほしいね。生まれてきてくれる日が待ち遠しくてならない。ほんの一時でも早く我が子を抱きたいものだよ」
唐の詩人である李益が『游子吟』の中に「光陰如箭」と記したように、月日が過ぎるのはまさしく矢のように早い。やがて臨月をお迎えになって、皇子がいつお生まれになってもおかしくなくなると、貴賤男女を問わず、今か今かと一日千秋の思いで、おめでたい知らせがいつ届くかということばかりを考えるようになった。
誰にとっても思いがけない凶報が飛び込んできたのは、まさにそんな時のことであった。皇子を抱くことをあれほど楽しみにしていらっしゃった天皇陛下が、宮殿でのご執務の最中に、にわかにお倒れになったのだった。
天子のご快復を祈願しない人は世に一人としていなかった。いまだ日嗣の皇子がおいでにならない中で、最年長の弟宮にあたらせられる嵯峨宮殿下におかせられては、万一の御事あらば皇位が回ってくるというお立場にましましたことから、
「かねてより内心では兄帝が崩御あそばされることを望んでおいでだったのではないか」
などと疑いの目を向けられ給うたとて仕方がないお立場でいらっしゃったけれども、数多くおいでになった金枝玉葉の方々の中でも、最も強く神仏に祈願あそばしたのは紛れもなくこの殿下なのだった。
遠く異朝をとぶらえば、かのフランス国王ルイ十六世は、ごく幼い頃からいずれは王位を襲うべき身として育てられながら、祖父・ルイ十五世の崩御に伴って十九歳で即位することになった際、
「私は何一つ教わっていないのに」
と嘆いたと伝えられる。それを思えば、これまで弟宮として比較的ご自由に日々を過ごしていらっしゃった嵯峨宮殿下がこのようにお祈りになったのも無理からぬことであろう。
「生まれながらの皇太子でいらっしゃった兄上とは異なって帝王学を修めておらず、また御位を承けることなど露ほども意識したことがない自分が践祚することになれば、朝家は一巻の終わりです。天神地祇よ、天つ神と国つ神のすべての神々よ。自分はどうなっても構いません。なにとぞお上のお命をお救いください!」
しかし、貴賤貧富、老若男女を問わない天下諸人の祈りは無情にも天には届かなかった。時の帝におかせられては、ついぞご意識を取り戻されることのないまま、宝算三十一というお若さにして崩御あらせられたのだった。
さて、皇位は嵯峨宮殿下がお継ぎになったものの、何とも間の悪いことにその翌日、御代替わりに伴って皇太后陛下とならせられた先代の皇后陛下が、玉のような親王殿下をお生みになった。天下万民に敬愛され給うた先帝がお遺しになったこの御子が無事にお生まれになってから間もなく、新帝におかせられては、
「やはり天皇の位には甥が即いていたことにはできないだろうか。嫡流から皇位を簒奪したと見なされるのは耐え難い。自分はこの兄の遺児が成人するまで一介の皇族・嵯峨宮として摂政を務めて、その後は静かに過ごしたいと心から願う」
と政府にお申し出になったのだが、大昔の朝廷ならばともかく、近代以降は皇室典範の規定上、空位はほんの一瞬たりとも認められないし、また胎児に皇位継承権はないということになっているので、この皇弟が即位なさった事実は如何ともしがたかった。
江戸時代初期のことだが、同母兄を差し置いて水戸藩主となった徳川光圀公が、のちに兄と子を交換してそれぞれの後継にしたという故事があった。新帝におかせられても、
「一時的に自分が皇位を承けることになるにしても、いずれは兄のお血筋に三種の神器を引き渡したい」
とお考えになったのだけれども、それも国の制度が許してくれなかった。新帝のご子孫がことごとく絶えでもしない限り、先帝の皇子へと至尊の宝位が渡ることはもはやありえないことになってしまったのだった。
皇太后陛下の御手許に親王殿下がお生まれになってからというもの、宮内庁の職員たちはほとんど前例が見当たらない事柄に頭を悩ませることしきりだった。
彼らが最初に悩まされたのは、新たに生まれたこの親王の命名の儀をどのようにして執り行うかという問題であった。
「天皇ならびに皇太子の御子については、古くより天皇がご命名になることになっている。さて、新しくお生まれになった親王殿下は、天皇の御子には違いないけれども、今上陛下ではなく先帝の御子である。明治以来初めてのことだが、このような場合はどうすべきなのだろうか」
この問題については、喧々諤々の議論の末に、帝がご直々にお名付けになる対象ではないと結論付けられた。しかし、ご在位の帝の皇子に対せられるがごとく、特例として新帝がご命名になることとなった。それは、お生まれになる前に宮内庁のほうであらかじめ候補をいくつか用意していて、それらに先帝もご熱心にお目を通していらっしゃったので、それならば他の名を付けるよりは宜しかろう、という叡慮によるものであった。
そのようなわけでお生まれになった親王殿下に対せられ、この叔父帝におかせられては、曾子の『大学』を典拠として、「治宮」の御称号ならびに「国仁」の御諱を賜った。
新帝には五人もの皇子殿下方がいらっしゃったので、治宮殿下の皇位継承順位は第六位とそうお高くもなかったけれども、なにしろ世が世なら天皇とならせられたはずのお方でいらっしゃったから、その注目度は並の金枝玉葉の方々とはまるで比べ物にならなかった。
「先帝陛下がほんの一日でも長生きをなさったなら、あるいはこの親王殿下が一日でも早くお生まれになっていたなら」
この頃の世の人は、治宮殿下がマスメディアに取り上げられ給うたびに、そのようなことを考えずにはいられなかったが、それもそのはずだった。新帝の皇子殿下方はどなた様も、一介の皇族・嵯峨宮の御子としてお生まれになったがために、御称号をお持ちにならないし、御諱もそれほど特別なものではいらっしゃらない。そんな中で、この親王殿下はその御称号も御諱も、ゆくゆくは天皇となるであろうことが強く意識されたものであることが誰の目にも明らかだったからである。
新帝におかせられては、本来ならば帝位に即くべきだった兄の子からその地位を奪ってしまったという負い目を強く感じていらっしゃったこともあってのことだろう、赤坂の御所すなわち元の嵯峨宮殿邸から皇居・吹上の大宮御所に足繁くお通いになり、父親代わりとしてこの甥にずいぶんと目をお掛けになった。
ある時には、いまだ意思の疎通もできないほど幼いこの甥をお抱きになりながら、
「この子はそういう星の下に生まれてきてしまったのだろうか、前世で功徳を積んで朝家の嫡流として生を享けたはずなのに、いずれは並み居る皇族と変わらないように宮号を賜らなければならないし、時が流れるにつれて埋没してしまうことは避けられないのだよなあ。せめて他の皇族とは別格だということを表す宮号を贈ってあげたいものだけれども」
とお考えになった。
なお、この叔父帝におかせられては、やがて治宮殿下が成年を迎えられるに際せられ、かつて天皇数代の兄の家系だったこともある「閑院宮」[1]などの数多の候補の中から「春日宮」という宮号をお選びになったが、これは東宮を「春宮」や「春の宮」とも申し上げることを意識なさったものだった。ご即位あそばしてから実に十八年もの歳月が流れてもやはり、三種の神器を本当に承けるべきはこの甥だったはずなのに、というお気持ちを忘れることがおできにならなかったのである。
二
さて、帝の義理の姉にあたらせられる皇太后陛下におかせられては、わが子を夫帝の次の天皇にさせられなかったことを恨んでいらっしゃるわけではなかったけれども、
「世が世ならば天皇となっていたであろう人間として恥ずかしくない、高い教養を身に着けさせよう。平民育ちの女手一つでも立派な皇子に育て上げてみせて、お早くにお儚くなってしまわれた黄泉の国のあの御方を安心させて差し上げたい」
と思し召して、治宮殿下が健やかに成長されるにつれて、さまざまな宮中の伝統文化を幅広く学ばせるようになり給うた。その中には和歌や漢詩があり、書道や華道があり、そして雅楽があり、さらには蹴鞠という古めかしいものまであった。
そんなご様子を拝見した宮仕えの人々の中には、
「親王殿下を皇族らしく育てたいというお気持ちは結構なことだけれども、皇太后陛下は平民の出だからやはりどうすれば皇族らしいかを理解しきれていらっしゃらないのであろう。あれでいったいいつの時代の皇族をお育てになるおつもりなのだろうか」
などと陰口を叩く者もあった。実際のところ、竹の園生には幾千人という大勢の方々がおいでになるから、古色蒼然たる平安趣味のお方も少なからずいらっしゃったのだが、そんな中で治宮殿下ばかりがこのように世の注目をお集めになってしまうのは、ひとえに、世が世なら今上帝とならせられるべき先帝のご遺児であり、先帝の御所であった皇居内の大宮御所に依然としてお住まいになっているという、あまりにも特殊なお立場でいらっしゃるがゆえのことなのだった。
朝家のご嫡流だからといっていつまでも注視し申し上げるのは、上御一人であらせられるはずの今上帝を軽んじ奉るようなものだから宜しくないことではあるのだが、なにしろその今上帝ご自身が、
「今は国制上どうしても許されないことだが、もしも世が世だったならば、自分は治宮の血筋を末代まで世襲親王家として礼遇することを躊躇わないだろう」
と口癖のように仰せになるほどにこの甥をお気に掛けなさって、今上帝を拝見せんとすれば自然とこの皇甥殿下をも拝み奉ることになったのだから、下々の者どもがいついつまでも気を取られてしまうのも仕方がないことだと言わざるを得ないだろう。
そんなありさまだったから、いまだお若くていらっしゃった皇太后陛下におかせられては、亡き夫帝とまさに瓜二つであらせられる当今とごく間近で過ごさなければならないことをもともとたいそう辛くお感じになっていて、もしも叶うことならば仏門に入って距離を取りたいとまで思し召していたのだが、そのうえさらに、
「わが子はもはや一介の親王にすぎないのに、あまり大御心をお煩わせしてはいけない。この大宮御所も、いまだに赤坂御用地に住まっていらっしゃる聖上に明け渡さなければ」
とのお気持ちを強くされて、皇居を退去したうえで、並み居る金枝玉葉の御身がそうされるのと同じように今上帝から遠く離れた京都か奈良へと移り住むことを考えるようにならせられた。
だが、ご希望が叶って京都に移り住まれた後のお暮らし向きは、落飾後のような隠棲には程遠いものであった。皇太后陛下におかせられては、一介の宮家と同じようなお取り扱いを望んでいらっしゃったのだけれども、先代の皇后というご身分にふさわしい礼遇をすべしとの叡慮により、京都大宮御所がそのお住まいに充てられたのだった。それに何より、かつて傍流の宮輩でさえも大手を振って奉迎したあの古都の人々が、皇太后陛下や世が世ならば時の天皇とならせられていた若宮殿下を歓迎しないはずがないのである。
古来、朝家は全国津々浦々のさまざまなものを献上されてきた。わけても新鮮な食物については、歴史的に御所への距離がそう離れていなかった上方の人々が多くを献上していた。
例えば、滋賀県は近江八幡市では、古くからムベという果物を朝家に献上してきた。言い伝えによれば、人皇第三八代・天智天皇が近江国の蒲生野にて遊猟をし給うたとき、琵琶湖に面した奥島庄という場所にお立ち寄りになったことに由来するという。天智帝におかせられては、八人もの子がある子沢山で、とても長生きをしている上に病気一つしていない老夫婦に出会われたのだった。
驚かれた天智帝は、どうすればそのように健康で長生きできるのかをお尋ねになった。するとその夫婦は、
「昔からこの地で採れる無病長寿の果物を、秋に実るたびに食しているからでございます」
と奉答し、実際にアケビを小さくしたようなその果物を天覧に供し奉った。天智帝はその果物を召し上がるや、一言、
「むべなるかな」
と仰せになって、朝廷に毎年献上せよとお命じになった。このとき天智帝が口になさった「むべ」という言葉が、そのまま不思議な果物の名前になってしまった、ということである。
さて、その「無病長寿の霊果」ムベであるが、栽培してきた百姓たちは、今上帝のいらっしゃる東京の禁裏に加えて京都の大宮御所にも献上したいと申し出た。このように東西を同等に扱う程度ならばまだましなほうだろう。東京の禁裏は無視して大宮御所にだけ物品を献上しようとする都人からの申し出も後を絶たなかったので、宮内庁京都事務所の人々はその対応に頭を悩ませることしきりだった。それが保津川の鮎のような生ものばかりだったならば、
「はるばる東京まで下らせるうちに傷みかねないから」
という説明だけで足りるけれども、不自然なことに古都の人々は、日持ちのする品々ですらも東京には献上したがらないのだった。
「南北朝の昔、後醍醐天皇が足利尊氏を恐れて比叡山にお逃げになった後、新たに光明天皇が御位に即く際のことでございます。光厳上皇宣命案には、天皇が京師からいなくなってしまったから新帝を擁立するのだ、というようなことが書かれています。この先例に倣えば、明治天皇が長州の賊軍めに東京に連れ去られてしまった時にも、我々は新帝を立てるべきだったのではないでしょうか。そして朝家の嫡流が京都にお戻りになった今や、私にとっては一般的に『治宮殿下』と呼ばれていらっしゃるお方こそが正統な天皇陛下なのです」
ある時、高名な京菓子職人がインタビューを受けた際にこう言って大きな話題になったが、明治維新から千年近くという歳月が流れ、もう少しで東京の首都としての歴史が「千年の都」こと平安京よりも長くなるという段階に至ってもなお、この職人と同じような考えの人が古都には少なからず残っていたのである。
そんな環境であったから、皇太后陛下におかせられては、皇太后宮大夫たちに勧められるがままに、大宮御所のすぐ隣にある仙洞御所の庭園を秋が深まった素晴らしい時季にご散策になる時でさえも、少しも御心を落ち着けることがおできにならなかった。
「私はただ心静かに暮らしたかっただけなのに、その気持ちがかえって南北朝時代の再来を思わせるこんな状況を招いてしまっただなんて、ああ、聖上にどんな顔でお詫び申し上げればいいのでしょうか」
【脚注】
[1]江戸時代後期、人皇百十八代・後桃園天皇の養子として閑院宮家より皇位を継承した光格天皇には、美仁親王という血筋のより良い異母兄がいた。閑院宮家はその後、美仁親王の子孫が孝仁親王、愛仁親王と続いた。
ここから先は
¥ 250
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
モチベーション維持・向上のために、ちょっとでも面白いとお感じになったらスキやフォローやシェアや投げ銭をしちくり~