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[超短編小説] スーツ


スーツに身を包むと気が引き締まる。

しかし僕は基本的にスーツを着ない。
着るのは年に数回くらいだろう。

なぜなら、僕は引きこもりだからだ。

所謂ニートで、母からの仕送りでギリギリの生活を送っている。

数ヶ月前まではアルバイトをしていたが、どうしても仕事や同僚に馴染めず辞めてしまった。

友だちもおらず、社会との関わりもない。

昔からそうだった。
学生時代、友だちが居ないというだけで色々なレッテルを貼られ、生き辛い環境だった。

しかし今となっては一人でも誰からも何も言われず、幾分過ごしやすくなったように感じる。

と、少し話がずれてしまったが、何が言いたいのかというと、スーツを着る機会が圧倒的に少ない。という事だ。

そこで僕は「普段着として着ればいいのだ」と気が付いた。
毎日着るようなTシャツは、量販店で買う安いものなのに、年に数回しか着ないスーツには何十万もかかっている。
そう思うと着る以外の選択肢はないではないか。

いつも昼過ぎに起床し、カップ麺を食べ、スマホを触り、ゲームをする。
ポテチを食べ、スマホを触り、動画を見ながらまたゲームをする。という堕落しきった状態だ。

そこで、まずは午前中に起床し、スーツに着替え外に出ることにした。

といっても特にやる事が思い浮かばず、ブラブラと駅の周辺を散策してみたりした。
これが初日の動きだった。まあこんなものだろう。

二回目、少しスーツに慣れた僕は調子に乗った上に、電車にも乗ってしまった。
現在11時くらいだろうか「結構スーツ姿の大人はいるもんなんだなあ」なんて思いながらも数駅行って、引き返してしまった。僕は完全にビビっていたのだ。

三回目、そろそろスーツでの外出にも慣れた僕はどこかの駅で降りてみようと決意し、電車に乗り込んだ。
この前と同じようにスーツ姿の大人は多く、なんだか自分もまともな大人の仲間入りをしたかのように感じていた。

たまたま目に止まった駅で降りてみた。初めて降りる駅だ。周辺には何もなさそうな、田んぼが広がる田舎だった。

田んぼを横目に歩いていると、向かいから腰の曲がったおばあちゃんが歩いてきた。
なんだか気まずいなと思い、俯きながらすれ違おうとすると「暑い中ご苦労さん」と声をかけられた。
恥ずかしくなり何も言わずに別の道から駅に向かいその日はすぐに帰宅した。

四回目を行う前、既に僕はビビっていた。まさか知らない人から声をかけられるとは思っていなかったからだ。
あの時「ご苦労」なことは何もしていなかった。
ただスーツを着たニートだったからだ。
その上、そんな優しい言葉をかけてくれたおばあちゃんを無視してしまった。心のどこかに罪悪感があり、もうこの遊びはやめようかと考えた。

「いや、待てよ。あのおばあちゃんにもう一度会いに行こうか…」とひとりぼやいた僕は懲りもせず、スーツに手を伸ばした。

四回目、また電車に乗り、見覚えのある古びた駅のホームに立っていた。
この前と同じように田んぼを横目に舗装されていない道を歩いていく。
この前と同じ時間にもかかわらず、例のおばあちゃんは歩いて来ない。
「そらそうだよな。いつも同じことをしてるとは限らないし…」そう思い、来た道を引き返そうとした。

「暑い中、今日もご苦労さんだね」

後ろから急に声がして驚いて振り返ると、そこにこの前のおばあちゃんがいた。
「あ、あの、ありがとうございます」とオドオドと答えることしかできない僕を尻目に、おばあちゃんは去って行った。

一体何が起きたのだろう…。

さっきまでそこに誰もいなかったはずなのに急に現れたおばあちゃんを不思議に思いながらも、「今日はちゃんと答えられたぞ」という達成感に浸っていた。

五回目になるともう手慣れたものだった。
最初は手間取っていたネクタイもお手のもので、ササっと結ぶと鞄を持って家を出た。
何故かこのルーティンを心地よいと感じており、いつも三日坊主の僕は「自分もやればできるのだ」という気持ちになってきていた。
「どこへ行こうか」と駅までの道で考えていたが、やはり僕の足はあの駅の、あの田んぼの道へと向かっていた。

今日も同じ田んぼを横目に道を歩く。
やはり例のおばあちゃんはいないようだ。
時間は前回と同じくらい、そろそろかと思っていると少し遠くに色褪せたトタン屋根の、今にも崩れ落ちそうな小屋が見えた。
「もしかしてあそこがおばあちゃんの家か?」
ビビりながらもゆっくりと近づいていった。

近くで見ると更にボロさが目につく。
「これは…家ではなく倉庫か?」そう思い立ち止まると後ろにふと気配を感じた。
「おやおや、今日もお仕事かい?」
はっとして振り返ると、やはりそこには例のおばあちゃん。
「あ、はい。いえ。あの…」口籠もっていると
「暑いからお茶でも飲んでいきな」と家に案内された。
もちろんさっきまで見ていたオンボロ小屋だった。

言われるがまま中に入ると、中は意外と綺麗で物が極端に少なかった。
「その辺に座って」
そう促され、置いてあったペタンコの座布団に腰を下ろすと、ポンと冷えたお茶らしき物を目の前に置かれた。
「あ、ありがとうございます」と言い恐る恐る口へと運ぶ。とても冷たくて美味しい麦茶だった。
「最近よく見かけるねえ。なんのお仕事してるんだい?」
「えっと、あの…仕事は…」
「まあまあ、そんなことはどうでもいいか」
自分から聞いておいて、僕が答える前にどうでもいいと言って退ける。

おばあちゃんはその後も何か話しかけることはなく、おばあちゃんと僕の間に気まずい沈黙が流れた…。
と思ったが、沈黙は案外悪くなく、むしろ心地よいとさえ感じていた。

なんだろうこの懐かしい感じは。
なんだろうこの全てを包むような優しい雰囲気は。
全て分かった上であえて僕に何も聞かないような気がしていた。


気がつくと僕はうとうとしていたようだ。

はっと目を開けると目の前には田んぼが広がっていた。
「えっ…?」
そこは駅のベンチだった。

自分に一体何が起きたのか理解できずに
「ここでずっと寝ていたのか?」と駅のホームにある薄汚れた時計を見ると、短い針は5と6の間にあり、辺りも薄暗くなり始めていた。

帰宅した僕は今日あったことを思い返したが、どこまでが現実でどこからが夢なのか図りかねていた。

次の日に僕はもう一度あの駅へ行き、真相を確かめる決意をした。

六回目を迎えたこの儀式はいつの間にかあの田舎駅へ行くという目的に変わりつつあった。

昨日と同じようにスーツに身を包んだ僕はまたあの駅の無人改札を慣れた仕草で通り過ぎていた。

いつもと同じ田んぼ道、先の方に例の今にも崩れそうなボロ小屋が見える。

「あれだ。やっぱり夢じゃなかったんだ」自然と早足になる。
小屋に近づき辺りを見渡す。
「そろそろかな」と身構えるが一向におばあちゃんは現れない。
今日は暑いしこの小屋の中にいるのかもと思い、意を決して扉を叩いてみた。

「すみません。昨日お世話になったものですが…おばあさん、いらっしゃいますか?」

声を掛けるが反応はない。

「あの、どちら様ですか?」いきなり後ろから声がしたので「やっと現れたか」と思い振り返ると見たことのない「おばあちゃん」と呼ぶにはまだ早いくらいの女性がそこにいた。

「えっと、ここのおばあさんにお世話になったので挨拶がしたくて…」
「あら、ここは数年前から誰も住んでないわよ。前に住んでたおばあちゃんが亡くなってからは誰も」
「えっ、誰も…?」
「あ、もしかしてあなた昔の生徒さん?よく来てたのよ色んな人が。ここのおばあちゃん、昔は先生だったからね」

僕は混乱した。
どういうことだ。
僕は昨日この家に行った。
いや、やっぱり夢だったのか。
じゃあ、あのおばあちゃんは一体。

「あの、ここに住んでたおばあさんって、小柄で白髪を後ろで結んでました?」
「そうね、何年も前だからあまり詳しく覚えてないけど…。確かに、小柄でいつも髪を綺麗に纏めてたわ。元気で優しい印象だったわね」
やはりそうだ、僕が会っていたおばあちゃんに間違いない。
ということは僕は幽霊に会っていたのか?

僕はそのおばさんが知っている情報を全て聞くとお礼を言い、再び電車に乗り込んだ。

「一体自分の身に何が起こったのだろう」

———————————————————————————

あれから僕は新しくアルバイトを始めた。
何故だか分からないが、今行動しなければという気持ちになったのだ。
新しい職場では、積極的…とまではいかないが同僚や周りの人にはしっかり挨拶をしたり、少し雑談をするように気持ちが前向きに変わっていた。

以前は学生時代のこともあり、人と関わること自体を避けていた。
コミュニケーションどころか挨拶すらまともにしてこなかった。
そんな態度だったから今まで馴染めなかったんだなと今となっては思う。

そしてついに仕事終わりに飲みに誘われた。

「ありがとうございます。僕なんかを誘っていただいて…」
「いいって。歳の差あっても色々話してくれるし、仕事のやる気もあるし、もう少しあんたのことを知りたくなっただけだよ」
そう言って佐々木さんは笑った。
佐々木さんは社員で歳は確か六十前だったか。

行きつけだという居酒屋でお酒を飲み、美味しい料理を食べる。
こんな風に誰かと過ごしたのは初めてだった。
案外悪くないものだなと思っていた。

そうして僕は佐々木さんと仕事終わりによく飲みに行くようになっていた。

ある日、二人して飲み過ぎ終電を逃したため、近くに住んでいるという佐々木さんの家にお邪魔することとなった。
人の家に行くなんて初めてじゃないだろうか。
そう思い、足を踏み入れるとどこか懐かしいような落ち着く香りがした。
「水飲むか?」
「ありがとうございます」水を受け取り一気に飲み干す。
横で同じように佐々木さんも水を飲み干していた。

僕には父がいない。
僕が小さい頃に両親は離婚し母に引き取られたからだ。
父がいたらこんな感じだったのかな。
なんて思い少し恥ずかしくなった。

気が付くと佐々木さんは床に転がっていびきをかいていた。
「さて僕も寝ようか」そう思い寝転がった佐々木さんにふと目をやると、佐々木さんの向こう側に焼酎やウィスキーの並んだ棚が目に入った。
「家でもこんなに飲んでんのか」と微笑みながら視線を少し上に移すと、何やら写真立てが見えた。
別に見るつもりはなかったが、なんとなく興味があり近づいてみた。

「えっ」

そこにはあの駅のあの田んぼで出会ったおばあちゃんが写っていた。
まだこの写真では白髪になりきっていないが間違いない。
あのおばあちゃんだ。

「ちょっと、佐々木さん。起きてください!」

僕は考えるよりも先に佐々木さんを叩き起こしていた。
「なに、どうした」と光が眩しいのだろう細めた目をこちらに向けた。

「このおばあさん、何者なんですか?誰なんですか?」詰め寄る僕に一瞬真顔になった佐々木さんは「俺の母親だよ」とだけ答えた。

「え、佐々木さんの」
「別にそんな必死に聞くことじゃないだろ」

確かにその通りだ。
事情を知らない佐々木さんは僕がこんなに必死になって聞く意味が分からないだろう。
そこで僕はこの間の不思議な出来事を全て話すことにした。

この話はあまりにも現実的ではなく、馬鹿にされるだろうと思い誰にも話していなかったし、話すつもりもなかった。
しかし、佐々木さんは馬鹿にすることもなく、途中で話を遮ることもなくただ静かに僕の話を聞いていた。

「俺もお前に話さないといけないことがある」
話し終えた僕に佐々木さんは、気まずそうな顔をしながら言った。
「えっと、やっぱり今の話は信じてもらえないですよね。いいんです、忘れてください」
せっかく仲良くなったのに、やばい奴だと思われて避けられたらどうしようという思いが湧き起こり一気に酔いが覚めた。
「そうじゃなくて…その話は信じるよ。でも一つ大事なことを隠してたんだ。知ったら怒るかもしれない…俺のこと嫌いになるかもしれない」
「どういうことですか?僕が佐々木さんのこと嫌いになるかもしれない話って」

「俺なんだ。お前の父親」

「えっ」
予想外すぎる告白に言葉を失った僕は気の抜けた表情で佐々木さんを見ることしかできなかった。
「僕と佐々木さんって似てるのかなあ」なんて呑気なことすら考えていた。

「黙っててすまんかった。俺も初めは知らなかったんだ。でも飲みに行くようになって色々話を聞くうちに気が付いた。いつか言わなきゃならんと思ってたんだが…」
「それは…本当なんですか?」
「検査なんかしてないから多分としか言いようがないが…生まれ育った場所やお前と母親の名前、間違いはないだろう」
「てことは…あのおばあちゃんは僕の本当のおばあちゃんだったってこと…?」
「俺たちを再会させるため、だったのかもな」
こんな夢みたいな話が本当にあるのだろうか。

佐々木さんが僕のお父さん。

僕にも佐々木さんにも霊感なんてものは備わっていない。
それにそんな幽霊だのなんだのを信じるほど現実を楽しんではいない。
しかし、この数ヶ月に起こった出来事は紛れもない事実だ。
何千何万とある仕事の中、この場所でこの仕事を選んだこと。
偶然とは思い難い。

佐々木さんと話し込んでいるうちに、窓の外は僕の心と同じように明るくなっていた。

「もうこんな時間か…」
部屋の時計を見ると既に始発が出ている時間だった。
「始発も出てますし、とりあえず今日はもう帰りますね…」
「そうだな、今日仕事は?」
「今日はお休みです。佐々木さんは?」
「俺は今日も仕事、夜からだけど」
「そっか、じゃあちょっとでも休んでくださいね」

そして僕は荷物を持ち、佐々木さんの家を出ようと玄関へ向かった。
「気をつけてな」
振り返ると佐々木さんはこちらを向いている。
僕は微笑んだ。
そして玄関の扉を開けた。

「うん、またね父さん…」

後ろで佐々木さんが何かを言った気がしたが、恥ずかしくてもう後ろを振り向くことは出来なかった。





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