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新日本国憲法私案 シミュレーション【1】

感染症

201x年
11月
 政務卿は祭務卿を執務室に招いて雑談し、「中国でなにやら風邪が流行っているらしいですね」というと、祭務卿は「外務卿に確認させてはいかがでしょう。」と答えた。
 翌日、政務卿は外務卿を執務室に招いて、中国の状況を報告するように依頼した。同日、国民院衛生委員会の答弁で、総務卿は「注目はしておりますが、情報が少ないため確認中でございます」と答弁した。
12月
 政務卿は執務室で諜報長官から驚くべき報告を受けていた。武漢で発生している風邪は重篤な肺炎を引き起こしているという。政務卿は、外務卿へ公式にはどうなっているかを問い合わせた。
 外務卿は外交長官を執務室に招いて状況を確認した。同じころ総務卿も衛生長官と懇談してWHOからなにか情報提供はないかを確認していた。
 一方、日本国議会も武漢風邪について関心を示し、国民院、地域院それぞれの外交員会、衛生委員会、諜報委員会などで質疑をしていた。
 日本国議会議長は、議員の要請に応じて感染症対策特別委員会を国民院に設置することを許可した。同じく地域院内にも委員会が設置された。
 この際に国民院議長は、地域院議長である祭務卿と協議して、国内感染症対策についての審議は国民院で、WHOや外交対応は先議権のある地域院の委員会で行うことに合意した。
 委員会には衛生省から続々インフルエンザの報告が上がり、その中にインフルエンザ陰性にもかかわず風邪のような症状で肺炎の兆候がある患者が相当数いることが報告された。
 地域院議長は同報告を州知事に共有して各州でもモニタリングを強化するよう要請した。
 15日に平成32年令和元年度日本国議会会期が終了して冬休みとなったが、日本国議会議長は、各議員に緊急参集があるときは3日以内に参集できるように要請した。
 その日、内府は緊急安全保障会議を開催した。議案は年末年始における中国湖北省からの帰国者および入国者をどう扱うかであった。
 総務卿は、衛生長官から、未だ武漢風邪について入国制限などの対策をとるべきでないというWHOの見解を報告した。
 一方、外務卿は、外交長官からの、武漢での状況が不透明であることへの懸念が報告され、諜報長官はそれを支持するとともに中国政府の情報開示に強い懸念を表した。
 また、商務卿は、貿易長官や産業長官、内務卿も社会長官から、それぞれ中国系団体から性急な措置を望まないという陳情があったことを報告した。結局年末年始には状況を注視しながらも特段の措置を講ずることはしないことで合意した。
202x年
1月
 7日正月明けから令和2年度会期日本国議会が招集され、予算審議が開始された。冒頭から特別委員会の設置が議論され承認される。
 委員会審議において、12月7日、原因不明のウイルス性肺炎が確認され、12月8日その武漢市で肺炎クラスターが発生し、12月31日に世界保健機関 (WHO) に報告されたことが報告された。また1月9日には、湖北省で最初の死者が確認されたと報告された。
 15日、内府には、内務卿を指揮官とする危機管理対策チームを発足するとともに、衛生省中央疾病管理局は感染症対策チームを発足して以後、武漢風邪を新型コロナウイルス感染症と呼称して会見を行うことになった。同時期、国防省防疫衛生局および陸上軍特殊兵器防護師団は措置部隊を組織して情報収集と対処訓練を始めた。
 23日、政府、議会、財界に衝撃が走る事態が起こった。突如、中国政府は武漢市を都市封鎖したのだ。外交省は水面下で中国政府と調整をしており、チャーター機を出して日本人を帰国させようとした。そのチャーター機に中央疾病管理局職員と特殊兵器防護師団の専門チーム員の乗員を打診していたところ、中国政府から拒否をされていた。
 26日、政府はチャーター機を武漢に派遣して、武漢に残った日本人約800人を救出した。帰国者はいったん、中央疾病管理局感染症センターに移送され、PCR検査を実施して陽性者は隔離、陰性者も4日間の経過観察後PCR検査を実施して陰性であれば自宅に返した。
2月
 2月1日、1月20日に横浜を出港、22日鹿児島寄港、25日に香港、2月1日に那覇、4日横浜帰港予定のクルーズ船で、25日香港で下船した乗客の陽性が確認された。
 3日大黒ふ頭沖に停泊したクルーズ船に対する対処を、内府危機管理官の内務卿から下令された国防長官は、陸上軍特殊兵器防護師団に、衛生長官は中央疾病管理局に措置命令を発令する。
 2月4日から船内でPCR検査を実施し、陽性者を順次中央疾病管理局感染症センターに移送隔離した。同時に陰性者を経過観察のため陸上軍三宿病院へ移送した。
 乗員乗客3700人中約700人の感染が確認されたが、隔離が成功して感染者が市中に広がることは抑止した。しかし、春節のこの時期、ひそかに新型コロナウイルスは水際を突破することになる。
 2月、衛生省中央疾病管理局には、市中の病院からインフルエンザ陰性で肺炎の症状がみられる患者の報告がピークに達しようとしていた。
 州政府にも同様に新型コロナウイルスが疑われる患者の報告が上がっている。州知事からは、指定感染症に認定して感染症対応病院で対処をするようにしてほしいという要望が地域院に上がっていた。法務卿も議会承認を取る準備を始めた。
 しかし、内務卿はこの要請を退ける。衛生長官は、市中の病院にはインフルエンザのような症状があり、肺炎が疑われ、インフルエンザ陰性の患者を中央疾病管理局感染症センターへ報告するよう通達した。同時に病院の出入り口やトイレなどの共有部の徹底した消毒を指示した。
 報告があった患者に対しては中央疾病管理局感染症センターの専門職員や特殊兵器防護師団が、PCR検査を自宅にいって実施した。
 最終的に政務卿は28日、中国湖北書からの入国者を制限することを発表した。これによって春節を境に流行した新型コロナウイルスの流行は最小限に抑え込みができた。しかし3月に入ると第2波といえる更なる感染爆発が発生する。
3月
 3月に入ると感染の中心は中国武漢からヨーロッパ、さらにアメリカと拡大していく。まずイタリアが都市封鎖を行い、次はフランスが非常事態を宣言して封鎖する。ドイツ、スペインと続いてヨーロッパはほとんどの国が非常事態を宣言して都市封鎖のみならず国境を封鎖した。末にはアメリカも各州のみならず連邦も非常事態を宣言する。
 国内も市中の病院から肺炎の症状が悪化した患者の報告が急増していた。北海道、北見州知事は2月末、州内での集団感染発生を受けて緊急事態を宣言して、夜間の外出制限を行っていた。
 東京市のある武蔵州、大阪市を抱える摂津州、御所のある丹波州も感染確認者が増加傾向になった。内務卿は政務卿に事態を報告、非常事態の布告を進言した。
 15日教務卿は議会に対してすべての学校を20日以降休校とすることを報告して、学校長官は各学校に通知した。
 商務卿、財務卿は企業や金融機関に対して事業継続を発動し、極力自宅勤務を推奨することを議会に報告した。即日、産業長官や金融長官は企業や金融機関に通達した。
 政務卿は日本国議会議長と協議して、20日に国家非常事態を宣言して事前に計画された措置を実行する旨の内諾を得た。この間、IOCはオリンピックの1年延期を決定し、競技長官は高校野球をはじめ春のスポーツイベントの開催断念を発表した。
 20日、政務卿は国民に、非常事態を宣言すること、非常事態の措置権限、特に病院の病床確保等に関する権限を道長官に委任すること、アメリカ、ヨーロッパ、ロシア、アジア、オセアニアなどからの帰国、入国者の制限すること、都市封鎖や休業要請は行わず、感染防止対策に努めること、夜10時以降の外出制限を行うこと、クラスターが発生した施設は公表し、7日間の営業停止にすること、営業停止には支援金を給付することなどを発表した。
 また、納税している外国籍人を含む世帯には世帯収入の70%を給付することを発表した。給付は還付金登録口座とすること、給付は4月1日から開始されることも発表した。
 同時に2週間の経過を監視して事態が収束に向かわないと判断したときは、より厳しい措置を計画通りに実施することも付け加えた。
 日本国議会は付託された国家非常事態宣言を本会議で承認し、議長は議会を一時散会として、合同委員会を設置招集した。非常事態は天皇によって即日布告された。
 3月中はきびしい状況が続いた。広報長官は1日3回、政務卿は1回、記者会見し、内務卿や他の内府、衛生省中央疾病管理局も陸上軍も国民へ連日説明を行った。道長官から要請を受けた、中央疾病管理局および陸上軍特殊兵器防護師団はPCR検査を実施した。
4月
 1日、衛生省は感染症の専門家による対策班を組織していたが、内府はより広範囲に広げて数理学者、免疫学者、ウイルス学者、経済学者、社会学者、児童心理学者、教育学者あるいは危機管理学者などから総合的に意見を聴取した。しかし市中の状況は好転しない。
 各道州対策本部には、クラスター発生が連日報告され、営業停止施設は日々100件を超える。3月20日以降の自粛要請は、国民、住民の協力で目標値の8割接触制限を達成していた。ただ、懸念されるのは経済被害の状況だ。
 銀座、新宿、六本木、池袋の繁華街において、自主休業している店舗は約2割、稼働している8割の店舗は客足が途絶え、前月比で3割、前年比だと5割以上の売り上げ減となっている。
 内府危機管理本部では、連日各専門家と意見交換を重ねており、感染症専門家からのより厳しい制限案と経済専門家からの緩和案とのはざまで、対策本部は難しい決断を迫られていた。
 各国は、日本と比べ物にならない悲惨な状況で、感染確認者数、死亡者数いずれも10万にあたりの指標で50倍~100倍であった。
 その状況を連日、それらの国に滞在中のアスリートやアーティストがレポートしていた。メディアは、より厳しい対応を求める報道を連日行った。
 特にPCR検査の実施数不足、PCR検査を自宅で行っていることへの批判、あるいはクラスター発生施設とそうでない施設不公平さなどであった。
 議会でも各会派から報道と同じ内容の追求がなされた。PCR検査の拡充のための予算措置、自主休業している店舗への支援、営業を継続している店舗への休業要請、更なる外出制限など、経済を優先して感染症対策を怠っているのではないか、という批判が連日なされた。
 4日、政務卿はテレビ、インターネットで国民に向け演説を行い次の発表をした。冒頭まず、多くの患者を最前線で診療されている地域医院の努力、感染確認者を治療する専門病院の奮励に謝意を表した。
 次に措置として、国家緊急事態は継続すること、一部地域を除いて移動や外出の制限を解除すること、学校を4月13日から一律再開すること、クラスターが多数報告されているナイトクラブに、自粛要請を継続している地域のみ2週間の営業自粛を指示すること、PCR検査拡充用の予算をすべてワクチンや治療薬開発を行っている国内企業へ支援することなどが発表された。
 演説の後、記者会見に臨んだ政務卿は、記者のいくつかの質問に答えた。より厳しい制限は感染症専門家から提言を受けていたが、経済の専門家からは緩和の提言を頂いた。難しい判断だったが、基本的に緩和の方向で判断した。基本緩和に踏み切った要因は2つある。
 1つは免疫学者の提言で日本では、何かしらの要因で大きな感染爆発が抑止されていることだった。ダイヤモンドプリンセス号船内は、状況的に乗員全員が感染してもおかしくなかったが、最終的には2割弱であったこと。
 2つ目は、最悪を想定はするが、そうならないように準備することが、危機管理の専門家から提言があった。そこで最悪を欧米の状況を参考にして、10万人当たりの感染確認者が欧米の5割に達したら、厳しい制限を行うこととした。
 政務卿の判断は正しかった。学期を1週間早く休校したことは家庭、特に母親からの不満が多かったが、新学期を予定通りおこなったので、これらへの不満は解消した。
 また、トイレや出入り口など施設共用部が典型的な感染例であることを提示したことで、施設の運営への不安が解消されたこと、クラスターが発生している施設を絞って休業指示を行ったことで、経済被害を最小限にしたこと、給付を素早く行ったので弱者への支援を不充分ではあるが行えたことなどが評価された。
 ゴールデンウイークを控えた28日、政務卿は非常事態の収束宣言を行い、即日、日本国議会は承認し天皇が布告した。1カ月に及んだ、公権力の介入による、新型コロナウイルス感染症戦争は収束した。同時に今後の社会生活においての注意点を発表する。
 基本的対処はインフルエンザと同等にする。個別対応として、ソーシャルディスタンスについては引き続き推奨することと、学校やイベント開催での基準とすること、室内の消毒が徹底できるときにはこの限りではないことを発表した。
 例えば映画館でトイレ、座席など共用部に対する随時の消毒ができるときは定員で営業を行うことは問題ないこと、但し、感染者が確認されたときは、7日間の営業停止措置をすること。学校においては1人でも感染が確認されたときは学級閉鎖とすることなどが示された。
 国民や住民一人一人に対しては、鼻水や熱など風邪の症状があるときは、かかりつけ医院で診療を受け、医師が感染の疑いがあると判断したときは、できるだけ人と接触せず自宅に戻り、その日は安静にすること、症状が改善しないときはPCR検査をうけること、改善したときは以後7日間の外出を控えることなどが発表された。
5月
 ゴールデンウイーク、国内の移動制限を解除したことで、各地の観光地は8割がた例年の賑わいを取り戻した。苦境の観光業に対して補助金で支援するとともに、旅行者にも政府が支援をした結果である。
 懸念されたスポーツイベントも一部を除いてまずは無観客ではあったが開始され、夏の高校野球やインターハイも開催が決定した。
 15日には、韓国、中国をはじめ東アジア圏の各国からの入国制限の緩和をはじめ、落ち込んでいたインバウンド需要の回復を図った。5月末からは欧米各国も経済活動を再開しはじめたことを受け、入国審査での抗体検査を義務付けはしたものの、欧米各国からの入国も緩和した。
6月
 G7首脳はリモート会談を行い、こぞって日本の対応を称賛した。政務卿は各国首脳したいして、かかりつけ医院が最前線で患者を診療してくれたこと、早い時期から感染が共用部を通じて物人で感染することに対して注意喚起したこと、感染爆発が日本で起こりにくかったこと、最悪を想定しながらも、最悪で行動してはいけないことを心がけて、都市封鎖などの制限をかけなかったことなどを伝えた。
 特に最悪を想定してもそれで行動してはいけない心掛けは、「大敵を怖れず小敵を侮らず、勝敗将に決せんとする祭には、実際勝戦なるに自ら苦戦と感ずること多し、故に我苦戦するとき、敵はその数倍も苦める物と観念するを可なりとす。敵七分我三分と思う時が実際五分五分なり。」という東郷平八郎聯合連合艦隊司令長官のことばを参考にしたと報告した。
 また、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」という宰相ビスマルクの言葉に照らし合わせ、人類発生より太古から、ウイルスは存在し、治療薬もワクチンもないにも関わらず今日、人類が生存していることは、何よりウイルスと共存する能力を人類は獲得していると確信していたことだ、とも述べた。
 この後、日本はコロナ禍にともなう経済的苦境から脱出し、中国、韓国と協力して欧米各国に対し「JAPAN PLAN」発表し支援をしたことを付け加えておく。

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