「めんどくさい」はワルモノじゃない
「めんどくさい」という感情が沸き上がると、同時に罪悪感がたちのぼる。
たとえば、毎日のご飯作り。家族の健康のため、できる限り手作りで、できる限り栄養のあるものを作らねばと思う反面「めんどくさぁ」というため息がもれてしまう。
家族のためなのに「めんどくさい」と思ってしまった自分に、たちまち罪悪感。しょぼん、と落ち込みそうになる。
そんな時、思い浮かべるようにしているのが、ある人の言葉だ。
「めんどくさがりは、工夫の天才なんだよ」
その言葉は、中学生だったわたしにとても響き、20年以上たった今も鮮明に浮かぶ。
海釣りのシーンで、その言葉は紡がれた。その釣り人が広げた釣り餌は、何から何まで手作りだった。釣り道具として売られている小物を加工したもの、日用品を細工して作られたものなど、多数の種類がある。
さすがに釣り竿は既製品だったが、手作りのルアーをこまめに変えて釣りにいそしむ釣り人に私は言ってしまったのだ。
「そんなめんどくさいこと、よくできるね」
自分の父親ほどの釣り人に対して、たいそう偉そうな口を利いたものだ。失礼な中学生に対して、釣り人はおだやかに答えた。
「僕は誰よりもめんどくさがりだよ。魚が釣れるのをじっと待つのが何よりもめんどくさい。だから早く釣れるために、ルアーを工夫しているんだ」
釣り人は皆、太公望のように「魚を待つ時間」を楽しんでいるものだと思っていた。面食らうわたしに、その人は笑う。
「めんどくさがりだから、工夫する。めんどくさがりは、工夫の天才なんだよ」
母の友人であったその人は、趣味の範囲を超えた釣り人だった。たくさんの種類の魚を釣り、めんどうな下処理をしたうえで友人宅に配っていた。なぜそこまでするんだろう、と子どもながらに思ったものだ。
彼にとって「めんどくさいこと」は、魚を待つ時間であり、それを短縮するために手作りの疑似餌を試行錯誤していたのだと知り、とても腑に落ちた。
冒頭の話に戻ろう。
家族への食事作りをめんどくさいと感じてしまったら、やるべきことは「罪悪感で落ち込む」ことではない。「めんどくさいを排除するため、工夫をする」のが優先だ。
この考え方から、ホットクックという電子調理機を購入した。私がめんどくさいのは、料理自体ではない。コトコト煮えるを待ち、荷崩れしないようにたまに鍋をゆらすといった料理のひと手間だ。そのひと手間はホットクックで解消する。
混ぜる、煮る、ゆでる、蒸すといった時間のかかる調理も、ボタンひとつで設定可能。きっと私のようにじっくりと料理に取り組むのをめんどうと考える人たちが、ホットクックを開発したんだと思う。明らかに工夫の天才が成した偉業といえる。
めんどくさい、の感情は決して悪者なんかではない。少しの罪悪感とともに、釣り人の言葉を思い出す時間もまた「めんどくさい」のおかげなのだから。
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