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キリスト教の教え 1 


キリストの教え 1
東京キリスト教神学研究所 所長八木雄二


1.はじめに

 キリスト教について、長く学んできました。いろいろな信者のかたにも接してきました。聖書も完全ではありませんが、それでも折々に読んで来ました。何度かはキリスト教会の司祭職のかたの話も聞いたことがあります。最も長くはカトリックの中世期のキリスト教神学の本を読んで来ました。しかし、同時にソクラテスやプラトン、アリストテレスやセネカの哲学にも触れて来ました。その結果、私自身はキリスト教信者として教会に認められる立場ではありませんが、イエスの教えの本当のところは、こんなことではないのだろうかと、ほかで言われていることとは少し違うことを考えるようになりました。
 わたしの説明は半信半疑で聴いてもらえればと思います。教会の学者や司祭職の人から聞いていることとは違うこともあるでしょう。それでもいくらかは、これからみなさんにお話しすることのどこかに、真実味があると思ってもらえて、この話がキリスト教についてあなた自身があらためて考えるよすがとなるなら、喜ばしいかぎりです。
 じっさい、わかりやすいだけのキリスト教の説明なら、これから出てくる学習機能をもった生成A I が作る文章のほうが、ずっといい説明をしてくれるでしょう。人類の多くは、自分たちの怠惰に目をつぶり、機械の便利さとその機械をつくった技術を誇るようになって久しいのです。二百年前に始まった「近代」とは、そういう時代の始まりです。少し前までは、それは物体的なものに限られていました。それが精神的なことがらに及んできているのです。「危険」が指摘されています。怠惰であることに慣れた現代人は、ことばで考えることも機械任せにすることに抵抗感はなくなっています。ひとたび生成A Iに「政府見解に沿うように」文章をすべて作るようにプログラムを潜ませれば、国民は政府見解に従った思考しかもたなくなるのは目に見えています。
 この危険を回避するためには、生成A Iには、「わからない文章を作る」ようにプログラムを作るしかないでしょう。そうすれば、人々はこぞって「なぞ解き」に専念して、自分たちの思考力を取り戻すことができるようになるでしょう。禅仏教の「公案」など、そのよい例です。
 わたしがこれから示す説明は、人間にだけ許されるべき「わかりやすい説明」の生成です。なぜ人間にだけ許されるべきだと言うことができるのは、それは、人間が怠惰であってはできないことだからです。機械任せにしない。しかしそれだけその仕事には誤りの可能性が出てきます。人間がやることですから。そしてそれだけ、その説明を聴く人は、自分でも考えて、騙されないように、その説明を吟味しなければなりません。読者には、その面倒を厭わないことが大事です。
 わたしがさまざまなことを考える日々のうちに、このような文章をあえて書く気になったのは、聖書が書かれた時代がはるかむかしのことになって、現代人にはその内容がそれだけ分からないものになっているのではないかと、考えるようになったからです。
 たとえば江戸時代の末、日本を訪れた西欧人は、町の往来で母親が赤ん坊を懸命にあやし、父親が子供を肩車して嬉々としているのを見ていました。そして「子供がこんなに大切にされている国は見たことがない」と驚いていたのです。また明治初期に日本にやって来て日本人になった小泉八雲は自分が目にしたことを綴っています。あるとき警官につかまった泥棒が何もしていないとしらを切っていたところ、たまたまそこに居た母親の背中におんぶされた赤ん坊の姿を見せられ、警官に「この子を見てもしらを切れるか」と問われ、その泥棒の顔色が次第に変わり、ついには泣き崩れて自白したのです。赤ん坊は「聖人」のように見られていたから、泥棒も赤子の前ではどうしても嘘がつけなかったのです。
 今でも七五三の祝いが熱心に行われていますが、それも子供がまだ幼い内に亡くなることがむかしはきわめて多かったからです。医学技術が進んで、今では子供が死ぬことも珍しいことになりました。背景となる感覚がすっかり変わっています。
 そのせいか分かりませんが、その同じ国が、現代では国連の「子供の権利条約」になかなか参加しようとしていなかったという事実があります。百年の間に、「子供」についての認識が大きく変わってきているのです。だからイエスの時代には「その言葉でわかった」ことが、今では「わからない」ことになっていても、不思議ではありません。
 女性の権利についても同様です。武力という暴力が国の力となるにつれて、男性優位の社会が作られていった結果、女性の権利は社会のなかで貶められて来ました。人類誕生の初めから、ということではないのです。ところが無意識のうちに、ほんの短い現代という時代の常識で聖書が読まれているように見受けられます。中にはキリスト教会の説明とは違った読み方を披露する人もいますが、一部で違った見方をしても、首尾一貫した理解にはなっていないことが大半です。実際には現代の常識で読むことが原因で、聖書のことばが現代人には不可解なものになっているのだと思います。
 哲学の作業を通じて様々に考えをめぐらしてきた結果、イエスの教えの背景にある何か、あるいは、基礎にある何かが、わたしの目に見えて来ました。全部とは言いませんが、案外大事なところが見えて来たと思います。それを現代人にも「わかる」ことばにすることは、そろそろこの世ともお別れを考えなければならない年を迎えたわたしの務めでもあるかと思い、この文章を書くことにしました。

2.キリストの教えを学ぶために必要なこと

 まず先にこれからの話がわかるための前提になるところから話していきたいと思います。その前提とは、イエスの話がわかるために必要なことです。
イエスは一人ひとりの「心の中のこと」について話しています。目に見える金銭や他人の行為や、身体的なことについて話しているのではありません。聖書に、イエスが病気を治した話があっても、よく読めばわかりますが、彼は病気の治し方を教えていません。イエスは病気を治しても、イエスは病気を治す方法を教えていたのではありません。つまり病気の治癒は、イエス・キリストの教えではないのです。たんに「神の権能」を示しただけです。これはちょうど、人が高価な装身具で自分の社会的地位を示すことと同じです。その人は装身具を作る技術をもっていません。それを教えて、それができる人を作ることはできないのです。イエスも、治療法を教えて、死んだ人をよみがえらせることが出来る人間を作ることはできませんでした。
 イエスの話を民衆が聞く気になるように、イエスが病気を持つ人に対して特別な力を持っているところを見せただけです。しかし病気を治しても、医者が尊敬される意味で人は尊敬を勝ち得ることができるだけです。それを見て、自分も同じような医者になろうとする人は出て来たかもしれません。しかしおのれの生き方を変えるような話をイエスから我先に聞こうとする人が、その奇跡を見た人から出て来たというようすは、聖書にはありません。イエスが起こしたというこの種の奇跡は、イエスが民衆に聞いてもらおうとした肝心の「教え」を、民衆に聞いてもらう方法としては、まったく失敗しているのです。
 繰り返しますが、キリストの教えは「心の中のこと」についての「教え」です。自分の心の中を見ることが出来なければキリストの教えを学ぶことはできません。だれでも経験しているように、他人の心の中は、見ることができません。見ることができるのは、自分の心の中だけです。心の中としては、それしか人は見ることができません。つまり人は自分の心の中のことによってのみ、イエスが教えようとした「心の中のこと」を経験できるのです。
 ところが、中には、心の外に在って目に見えるもの、手でつかめるものしか信用できないと、そればかりを追う人がいます。しかし自分の心の中を見ることができないと、「心の中の教え」であるキリストの教えは、学ぶことができません。なぜなら人は見たことも聞いたこともないことについては、言われても何のことかわからず、学ぶことができないからです。
 たしかに、自分の心を見直しても、心の内にあるものはどれも「空っぽ」で、追求すべき「実体」と見えるもの、確かなものとして信じられるものは見受けられないように思えます。これもまた現代人にとっては常識になっています。心の内にある思い出も、映像を残さなければ、あるいは、それをたくさんの人に見てもらわなければ「事実」として感じられなくなっていて、その結果、各自が目の前のものを次々と撮影して交流サイトに揚げています。たくさんの人からの反応が得られないと、自分が現に経験していることさえ、事実として信じられなくなっているのです。さらに虚構の世界に慣らされて一部の人は見ず知らずの人が作ったフェイク・ニュース、作られた画像に心を占められ、踊らされてしまっています。踊らされていることで、不安を忘れ、そのときが生きがいにすらなっています。これが現代なのです。
 しかしこの状態でイエス・キリストの「教え」を学ぶことはできません。自分の心の内に、ある種の「真実」を嗅ぎ分ける力が残っていないと、あるいは、ふだんから地道にその力を養っていないと、イエスの「教え」は、聞いても聞いても、わけがわからないものになります。その力は、自分の心の内にしかないものです。
あらかじめその力について、あえてつぎのように申しておきましょう。「これは確かに正しい」と思える何かが自分の心の中に見つかるに違いないと、「あなた」が自分を信じることができるかどうかです。できなければ、おそらく、あなたにはイエス・キリストの「教え」を学ぶことはできません。繰り返しますが、あなたが、自分がまったく信頼できず、心の外に居る他者を信頼するほかなくなってしまっているのなら、もはやあなた自身がイエス・キリストから学んで「自身を改める」(新しくする)ことはできません。
すでに述べたように、イエスの教えは、心のうちの出来事です。イエスの話を聞いて、自分が心の内で経験して来たことを思い起こせなければ、イエスの話はあなたにとって訳の分からない話に過ぎません。なぜなら、人はつねに自分の経験をベースにして人の話を理解するからです。自分の心のうちに「確かな経験」があって、それによって自分の心がイエスの話を理解しようと、意欲できなければなりません。自分の心に確かな経験がなければ、それをベースにした理解はもてません。イエスの話を聞いても、自分の心のうちに、話の中身に一致する自分の心の経験がなければ、イエスの話は理解できないものです。
 心のうちにそうした経験がなければ、じつはすべてが他人頼みになって、イエスの話を聞いても、「あなた自身の生き方」が、つまり「あなたらしい生き方」が、あなたにはできなくなってしまいます。何をしても空しいことになるでしょう。逆に言えば、もしもイエスの話を聞いて、自分の経験をベースに理解できるものがあるとすれば、あなたには「自分らしい生き方」ができる希望がもてます。なぜならイエスの話は、キリストであるイエスが、「自分らしい生き方」がそれにもとづいてできた心の内の話だからです。じっさい、イエスの話は、イエス自身をキリスト(神の子)にした「教え」です。それを学ぶことができる心は、イエスと同じように、自分自身をキリストの真実に近づけることができる心だと言えるのです。その希望が、たしかにあると言えるのです。

3.キリスト教信仰とは

 キリスト教は、「神であり人であるイエス・キリストが唯一の救い主であると信ずることによって救われる」宗教だと言われます。
 しかし、カギカッコで言われていることをお題目のように唱えていれば救われる、ということではありません。少なくとも、聖書か、聖書の内容を知っている人から「神であり人であるイエス・キリスト」が「どういう存在か」、「どういう人か」、「どういうことを言っていたか」ということを、いろいろと教えてもらわなければ、定義があってもそれは空をつかむようなことになります。また、それを教えてもらって、「あなたが、イエス・キリストという名に『神のような人』を心にイメージできる」のでなければ、やはりあなたは救われません。つまりイエス・キリストの名に関していろいろと教えてもらう内容が、「あなたの心」に深く響かなければ、キリスト教を信ずる条件が整いません。
 さらに、ことのほか気を付けなければならないことは、つぎのことです。「ほかの人がキリスト教を信じているかどうかは、自分がキリスト教を信ずるかどうかを決めるものではありません」。他人頼みで何事も決めている人は、だれか周りの人が信じているかどうかで、「自分も」信じようとするかどうかを決めるでしょう。しかし、それはキリスト教を信じることではなく、周囲のだれかを信じることです。神を信じているのではなく、神を信じていると当人が言っている、その人の言説を信じているに過ぎません。その人は神の如く誠実な人なのでしょうか、それとも時々は噓をついて逃げている人でしょうか。繰り返しますが、他人の心の中はだれも見通すことはできません。キリスト教が神を信じるように勧めるのは、人間は究極的に「弱いもの」だからです。真実を前にしても、自分の死や痛みを恐れて逃げ出してしまうものだからです。他人頼みという他人信仰は、結局、自分の命をかけて信じることに値しないのです。
 ですから、最初に揚げたキリスト教の定義の最後にある「救われる」の主語は、「あなたが」であって、「人間一般が」ということではありません。たとえ神から「あなた」と呼びかけられる人の数が地上の人間の九割に達したとしても、「他人事」に聞こえる「人間一般」がキリスト教によって救われると理解するなら、それは救済宗教の定義としては誤りです。なぜなら、救済宗教が救うのは具体的な個々人であって、人間一般ではないし、個々人を救うのも、個々人が現に生きている現実の「今」の時点においてだからです。
 「今」の時点で自分が救われたと言える実感があるのなら、その後の「今」においてもキリスト教は「わたしの今」を救い続けることができると考える(信じる)ことが出来ます。なぜなら、「今のわたし」をキリスト教が救っていると知られるのなら、つぎの「今」も同じように救ってもらえると、考えることができるからです。それは自分がこの世から居なくなるまで続きます。ですからキリスト教には永遠の救いができると、信じられているのです。

4.イエス・キリストを信じること

 イエス・キリストを信じることは、イエスを神と信じることです。そしてそのためには、すでに述べたように、イエスが述べていたことを聴いて、自分がイエスの内に「神」を、イメージできるのでなければなりません。したがって、結局のところ、肝心なことは、イエスを、イエスが神であることをイメージできるようなことがらを教える教師として受け止める必要があります。そしてそのためには、じっさいにイエスの教えを学んでみて、そのように自分の心が動かされることを実感しなければなりません。
 ですから「信じる」ためには、あらたに「学ぶ」必要があるのです。そしてあらたに学ぶためには、イエスが述べたことを、あなた自身が「わかる」、「納得できる」ことが必要です。
 何の学びもなしに信仰があるというのは虚構です。キリスト教信仰をもつためには、その聖書に伝えられたイエスの「教え」を、「あなたが」学んでみなければ始まらないのです。

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