少年を踏み潰す「車輪」の正体とは?ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』①
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今月は、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を取り上げます。
『車輪の下』とは、ドイツ語で『落ちこぼれ』という意味で、ヘッセ自身の学生時代の体験が投影されている自伝的小説です。
一人の少年の人生が周りの大人たち(社会)の期待に踏み潰されてしまった悲劇が描かれます。
受験戦争の過熱した現代の私たちにも、必要な教訓が含まれているかもしれません。
『車輪の下』―周囲の期待?大人の利己心?少年を踏み潰す「車輪」の正体とは?
ヘルマン・ヘッセ(1877~1962)
【書き出し】
仲買人、兼代理店主、ヨーゼフ・ギーベンラート氏は、同じ町の人にくらべて、目だつようなすぐれた点も変わったところも、べつに持ってなかった。
みんなと同じように、恰幅のある丈夫そうなからだつきで、商才も人なみだった。
〈高橋健二 訳『車輪の下』(新潮文庫)より〉
【名言】
【あらすじ】(前編)
小さな町の平凡な家庭に、ハンス・ギーベンラートという、見るからに聡明な、誰もがその才能を認める子がいた。
町民はみな、彼が、「州の試験に合格して神学校に入り、大学に進んで牧師か教師になる」という道を辿ることを期待していた。
彼の国ではそれが、裕福ではないが才能のある子どもにとって、その才能を生かすための唯一の狭い道であったからだ。
そのためハンスは、子どもの遊びをすべて取り上げられ、勉強に打ち込まざるをえないのだった。
学校の授業のあとに補修を受け、『聖書』の授業中もギリシャ語やラテン語を覚え、日曜日も勉強した。
自室で夜遅くまで勉強するなかで絶望的な気持ちになることもあった。
だが、功名心に燃え、「自分は周りの友達とは違う優れた人間で、いつか高いところから彼らを見下ろすようになるだろう」という思い上がった幸福感を抱いて勉強に励んだ。
数多くの町民がハンスの成功を祈るなか、州都で行われた神学校の入学試験の結果は、「百十八人中、二番で合格」という好成績だった。
力を出し切れなかったと感じていたハンスは、思わず「そうだと分かっていたら、完全に一番になれたのに」と漏らしたが、すぐに誇らしい気持ちでいっぱいになった。
牧師や小学校の校長からは、入学までの数週間の休暇も予習をするように勧められた。
「神学校でも仲間を押さえてやりたい」と思ったハンスは、勉強に熱心に取り組んだ。
しかし、次第に頭痛に襲われるようになる。
そんなハンスを、靴屋のフライクおじさんだけは、「勉強ばかりしていては駄目だ」とたしなめ、健康を気遣い、ハンスのために祈るのだった。
神学校に入学後、ハンスは寄宿舎で同室のヘルマン・ハイルナーと親しくなった。
ハイルナーは良い家の子で、一段と深いものを内に蔵し、心身共に年齢以上に成長した少年であった。
彼が詩人であり文芸家であることは、最初の日に分かった。
几帳面で努力家のハンスと、気軽者で詩人のハイルナーの友情は、不釣り合いながらも深まっていった。
十一月のある日、ハイルナーは神学校の校長の目の前で喧嘩相手を蹴るという事件を起こす。
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