仕事をしないということは社会的な死を意味する
たくさんお金があれば、仕事をしないで悠々自適に暮らせるという理想がある。例えば、FIRE(Financial Independence, Retire Early(経済的自立と早期リタイア)がまさにそれだ。
それが、本当に幸せなのか?
私にはわからない。
今の仕事に付く前に、半年間遊び呆けていた時期があった。
その前の仕事が非常にきつく、がむしゃらに働いて稼いで、その金を持って実家暮らしをしたからだった。
そうした状況だと、お金の心配は自分の小遣いぐらい。
生活するには何も困らず、食事と住環境に支出することは全く無い。着るものや他で贅沢しなければ、2,3年はそのままでも良かったのかもしれない。
しかし、半年たったある日、突如として無性に仕事がしたくなった。
仕事をせずにはいられなかった。
一人で、いつも同じ人と過ごすのも人生の中では重要なことだろう。
家族との時間は大切にしたほうが良いし、それは間違いない。
それに意を唱える人は、家庭環境がうまくいっていないか、一緒にいる家族に無理を強いている事に気づいていない。
話を戻すと、仕事がしたくなったというよりは、社会から完全に見放されたような不安が強かったのだと思う。何のために生まれ、何を目的として生きるのか?なぜ東京の大学を出たのか?自分のやりたかったことは何だったのか?私にとって半年間はそれを考えるに十分な時間だった。
しかし、その事答えが初めはぼんやりと、そして次第にはっきりと見えていくにつれ、仕事をせずにはいられなくなった。
もう20年近く前の話だ。
人は社会との関わりを持ちたいと願っている
最近、会社でパート採用をしている。
応募する人は、結婚を期に一度は仕事を離れ、出産・育児と5年ぐらい奮闘してきた方が多い。
有名大学を出て、その後出産のため退職しているという人も珍しくない。
全国転勤や世界転勤なども普通だ。旦那さんの仕事の都合で、異動は当たり前にある。だから、それについていくためにも仕事をやめざるを得ないという人も多い。
パートの募集で来る人は、大抵が転勤のある旦那さんがいる女性。しかも、子供が小学校入学前か低学年。
その人達の中には、非常に優秀な人も多い。時給はそれほど高いわけではないし、旦那さんの扶養から外れると困る人も中にはいる。そうした選択肢の中で仕事を探していくとなると、時間的な融通のみが応募の要件になりそうだが、有名大学などを出ていると、自分の能力が活かせるような仕事をしたいと望むようだ。
そして、彼女たちが口を揃えて言うのは、
「このままだと、社会との関わりがなくなってしまうから」
彼女たちは、仕事を通して社会との関わりを作りたいと願っている。
20年前に自分が感じた不安と同じものを彼女たちも感じているのだろう。
仕事は何故するのか?
その疑問に、「お金のため」と答える人は、いずれその仕事は辞める。より高い給与が出されるところに行ったほうが効率が良いからだ。効率よくお金を稼ごうと思うのであれば、それもやり方の一つだろうが、もっと効率的な方法などはたくさんある。
仕事をしないで生きていきたいという若者も最近増えてきている。奴隷のように仕事をして、希望も見えず日々を過ごすぐらいなら、仕事をしないほうが良いという判断なのだろう。もっと、自由に自分らしく生きていきたいと願うから、冒頭のFIREに憧れる。そして、それを夢見る。
でも、FIREした後はどうするのだろうか?
それこそ、悠々自適な生活が遅れるようになるだろうか?
おそらくそんなのはつまらない人生になってしまう。
FIREしている人は、投資をしているケースが多い。投資をすることによって社会との関わりを持っている。自分が投資した先の業績が伸びることで利益が出るが、初め投資をする際は伸びるであろう株にお金を出す。
しかし、そこには何の確証もない。もしかすると、マイナスになってお金を失うリスクも常に抱えている。
事業で成功し、巨額の富を築いた人はその後何もしないだろうか?
そんなことはない。だいたい次にまたビジネスを始める。なぜなら、その人にとってビジネスこそが最も面白いことだからだ。辞めても結局、ビジネスに戻ってしまう。テスラのイーロン・マスクも、ソフトバンクの孫正義も、マイクロソフトのビル・ゲイツですら、社会にとって何を成したいと常に行動している。
お金だけが欲しい人にしてみたら、あれだけ資産を持っているなら、もう仕事しなくても良いだろうと思ってしまうだろうが、そうではない。
FIREしている人の多くは、1億円~数億円程度だろう。そこそこの生活を続けていくために必要な資金がだいたいそのあたりだ。社会と関わらず、生きていく事がいかにつまらないことなのかは、そのときになってみないとわからない。
本当の資産家も社会との関わりを持っている
巨額の富を持ち、いわゆる一般的な仕事と呼ばれる拘束時間がない人は、慈善事業や寄付などで社会と関わりを持とうとする人も多い。
我々が思っている仕事は本当に仕事かということも考えなければならない。
社会を良くする活動こそが仕事であり、時間拘束が仕事ではない。
本来、仕事の成果を出すためには時間的な制限は一切ないはずである。
1分でも、100時間かけても、社会と何らかの関わりを持つことができること仕事なのだ。
社会との関わりとは、自分以外の誰かの役に立つこと。
逆に言えば、どんなことであれ、社会との関わりを持つことができれば、それは仕事といえる。
最後に
社会との関わりを持たない人は、死を待つばかりの生活を余儀なくされる。
社会的な死は、本質的な死も早める。
資本や知恵を持っていないのだとしたら、社会との関わりは仕事でしか得られない。