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監訳者の役割とは何か?

先週金曜日に「『人の器』を測るとはどういうことか」の最後のキャンペーンイベントを行いました。多くの方に応援で駆けつけていただいたことで、オンラインも含めて74人の方にご参加いただきました。本当にありがとうございました。

このイベントですべての「人の器」出版記念キャンペーンイベントを終え、今後おそらくこの書籍での出版記念イベントは行わないものと思います。(さらなる重版が生じたりしたら状況は変わるかもしれませんが)

鈴木則夫さんとの対談、翻訳者である加藤洋平さんとの対談、そして私個人の独演会という3回にわたる出版記念イベントでしたが、すべてのイベントを終えた今、改めて思うことをこちらに記載したいと思います。

監訳者という立場で私は本書に関して携わらせていただきましたが、監訳者とは一体何をする人なのでしょうか。

実は私はこれまでも他の著書で監訳の大役をいただいてきましたが、未だかつて一度も監訳者が何をする人なのかを教わったことがありません。そしておそらく私は一般的には監訳者としての役割を果たしていないのだろうと思っています。

なぜなら、一般的には監訳者に期待されることは以下の2つだろうと思っているからです。

一つは翻訳者が行った日本語訳が学術的に誤りがないかどうか、よりふさわしい表現がないかについて精査を行うというもの。

もう一つは、いわゆる名義貸しのように、監訳者の社会的信用によって、その書籍に対するある種の正当性や信憑性を高める、すなわち書籍に権威づけを行うというものです。

私は在野の実践家であり、学術研究者でないため「精査」の役割は限定的にしか担えません。「権威づけ」についても、私自身はインフルエンサーとしてのインパクトは非常に小さいと思っていますので、この点についても力不足だと思っています。

そう考えると、改めて私が監訳者としての大役をいただくことに対してどのように価値を発揮すべきかを自ら見出す必要がありました。

そしていま、私が見出している監訳者の役割とは、その書籍が伝えようとしていることに対して読者の皆様に少しでも身近なものに感じられ、関心が高まるよう、書籍との出逢いをプロデュースさせていただくことではないかと思っています。

翻訳者はその著者が言おうとしていることに対してできる限り解釈を加えず、読者に届ける役割を担うと思います。

それに対して、監訳者は翻訳者よりも自由な立場にいることから、書籍の意味の厳密さをただ追い求めるのではなく、読者に少しでも身近に感じられ、その書籍に触れたいと思う心持ちを生むためにできることを行うという役割を担えるのではないかという思いに至りました。

その意味で、読者の中で「ちょっと読んでみたいな」、「折に触れて手に取ってみたいな」と思う感覚がうっすらとでも生まれていくようにさせていただきたいなという思いで各種取り組みに携わらせていただきました。

この書籍は出版3ヶ月で2回の重版を実現できたこともあり、書店の中でロングセラーとして長く書棚に置かれるものになるだろうと思っています。

活字離れが進む現代において、書籍が書店に長く書棚に置かれることがどのくらいの価値があるのか、私には正直分かりません。

しかし、ラスキー博士や翻訳者である加藤洋平さんがこの書籍に懸けた思いが少しでも日本社会で認識され、その一助を担えたのであれば本当に光栄です。そして何より、私が愛する成人発達理論が日本の社会においてより健全な形で根付いていく上での礎を築くお手伝いができたのであれば、何より幸いです。

先週金曜日のイベントでは多くの方に応援いただきましたが、私という人間を応援をいただいたことで、成人発達理論をこれから学ぶ人たちや、それを活かそうとする人たちを通して社会の文脈が少しずつ変わっていく、すなわち社会が変わっていくプロセスに関わっていただけたこと、皆さんと一緒にそのプロセスをつむげたことが本当に嬉しく、ありがたく思います。

この書籍がこれからの日本のみならず、日本での翻訳の機会を通して他の国においても関心が高まり、新たなる貢献を果たしていくことを心より願っています。

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