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本は良き友であり、詐欺師でもある


小代焼中平窯の西川です(^^)

私は本を読むことや歴史を知ることが好きです。

まぁ歴史に関しては一部に特化していて、世界史や日本史の全体像を把握しているわけではありませんが…。

好きなテレビ番組(クレイジージャーニーとかマツコの知らない世界とか)もあるにはあるんですが、優先順位としては本の方が上です。



しかし、本を読む際に 気を付けなければならないポイントがあるな~とは 常々考えております。
まぁ、端的に言うと「全てを鵜呑みにしないように」ってだけの話なんですけどね。

今回はその具体例を書いていこうと思います。



青小代は強還元


まずは私自身のお話から。

小代焼の釉薬に「青小代」と呼ばれる発色があり、私が実家へ帰ってからこの色を出せるようになるまで、かなり試行錯誤しました。

3年程は思い通りの発色にならなかった記憶があります(^^;


その色を出すためには還元焼成と言う、酸欠状態で本焼きをする必要があるのです。
当初は「まあ、とにかく酸欠にすれば青が出るでしょ~」と気軽に考えていたものの、全く青くならないんです…。

なんというか…地味な緑色にしかならない…。


困った私は原料を微調整してテストを繰り返すことを続けていました。

ちなみに父は“長年の勘”で原料を量らずに調合するというスタイルを20年以上続けたため、まったくデータがありません(-_-;)


実家にある小代焼関連の本をすべて読み返すと、
ほぼすべての本に「強還元」や「強い還元炎」と書かれていました。




そこで私は「とにかく還元を強くするべし!」と考え何度も窯焚きに臨みますが、一向に色は良くならず…。

ガス窯を試行錯誤している間に登り窯(薪を使う窯)の窯焚きも何度か経験しますが、そこであることに気付きます。


「調合は同じ釉薬でも、薪で焼く登り窯ではちゃんと青く発色している!登り窯とガス窯の還元焼成はどう違うんだ…?」

そこで思い至ったのは
「登り窯はガス窯ほど強い還元にならない。還元と酸化の間を行き来しながら昇温している。」ということです。

同時期にあまり強い還元にしない方が青が良く出るという話も聞いていたため、さっそく次の窯焚きから試してみました。

そうすると、出ました…!青小代!念願の青小代が発色しました!




本の情報や先入観に邪魔されて、還元を強くしすぎていたんです。


当初の想定より、青小代を発色させるための還元は繊細な調整が必要であることが分かりました。

逆に、それまで非常に神経を使っていた原料の微調整は大きな問題ではなく、だいたいの調合が合っていれば、あとは焼き方次第だということも分かりました。


青小代の盃




五徳焼の宣伝文


次は小代焼の歴史のお話です。
小代焼は江戸後期になると『五徳焼』とも呼ばれていました。

それまで卸売りをしていなかった小代焼を一般向けに販売することとなり、宣伝文が作られたのです。



1834年の『肥後国小代五徳焼物効能由来』

「・毒を消す・茶をよく保つ・酒をよく保つ・生臭さが移らない・使い込んでも火に入れれば新品同然という五つの効能がある。
小代焼の陶祖が朝鮮で五徳焼を披露していたところ加藤清正に賞せられて来日。
肥後小代の麓で一子相伝で御用焼物を勤めて今に至る。」

「これからは民間への売物を焼くことになった。好みや注文に合わせて入念に焼成しましょう。」

という内容の、小代焼(五徳焼)の宣伝文でした。



上記の内容は歴史的事実ではなく、瀬上窯(江戸後期築窯)の宣伝文でした。
細川家や牝小路家・葛城家の名前は出てこず、幕末の清正公人気にあやかったものであると思われます。


この宣伝文をそのまま使って小代焼の歴史を語ることはまずいのですが、ここから読み解けることもあります。

・江戸後期から小代焼を売り広めようという意図があった。
・この時期の清正公人気が高かった。
・江戸後期に、牝小路家と葛城家の一子相伝だった小代焼の生産体制が変わった。

ということが分かるんです。



また、五徳焼の呼称について
「小代焼は実用性が高いために昔から五徳焼と呼ばれていて、広く庶民に愛用されていた。」
というニュアンスの説明がありますが、順番が正確ではないことも分かります。

「小代焼は江戸後期までは卸売りをしておらず、それまで小代焼に馴染みのない庶民へ広く販売するため、五徳焼というキャッチコピーを作った。」
という順番が正確です。



古文書であっても鵜吞みにせずに、
「この文章の種類や意図は何か?」
「他の古文書と比較したらどうか?」
「当時の時代背景はどんなものだったか?」
という態度があってこそ、本当の歴史が読み解けます。




椿井文書


最後は焼き物には関係ありませんが、歴史のお話を。
皆さん『椿井文書』という古文書をご存じでしょうか?

江戸後期に国学者の椿井政隆によって作られた大量の古文書のことです。


この古文書に登場する地図や日付、家系図などなど…。
多くに偽の情報、今で言うところのフェイクニュースが散りばめられているのです。

そして判断を難しくさせているのは、その中に『本当の内容』と『嘘の内容』が入り混じっているという点です。



各地の自治体が自治体史の編纂や郷土史の根拠にするなど、現在にも影響が強く残っているようです。

下記のリンクには七夕伝説で町おこしや学校教育を行い、
後に根拠とした古文書が椿井文書であることが判明した自治体について紹介されています。



『五徳焼の宣伝文』の章と内容が被ってしまいますが、
この出来事からは2つの教訓が得られます。

1つは
「古文書を読み解いたとしてもそれが真実とは限らない。他の古文書や同時代の資料と見比べる必要がある。」

もう1つは
「嘘の内容を見つけたからといって、その資料を全て無視する必要はない。本当のことも混じっている可能性があるので、他の資料との比較対象として残すことには意味がある。」

という教訓です。


この教訓は我々が歴史を知る上で、誠実な態度を育んでくれるのではないでしょうか?


↓関連記事↓


↓椿井文書のネットニュース↓




さいごに


最初に書きましたが本や歴史(特に小代焼関連)に触れることは、私にとってとても好きな時間です。

それと同時に、本や歴史に限った話ではありませんが、真実を見つけるということは難しいです。

私も自分の解釈に100%の確信はありません。

しかし、
実践できる内容は実践したり、歴史であれば他の資料と見比べるという取り組みは個人であっても行うことが出来ます。

100%真実とは言い切れませんが、
そういった取り組みの中でより真実に近い物作りをしたり、歴史についての情報を発信していければと思っております。



2023年8月30日(水) 西川智成

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