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『デジタルの種』- AI は、慈しむように育てられた -

割引あり

1-1:都会のオフィスシーン

モニターに映る無数の数値の群れが、秋の落ち葉のように揺らめいていた。瀬川舞は、青白い光を浴びながら、キーボードを叩く指を止めた。窓の外では、東京の高層ビル群が夕暮れに溶けていく。

「バグ、出ないかな」

つぶやきながら、彼女は新しい農業用AIのテストケースを走らせる。成長予測、水分量、気温変化――すべての変数が緑色のラインで上昇していく。完璧な数式が描く、完璧な成長曲線。

でも、どこか足りない。

「舞さん、今日も残業ですか」
「ああ、北野さん...はい、もう少しだけ」

声をかけてきた上司に、舞は小さく頷いた。農業ベンチャー出身の北野は、彼女の仕事ぶりを特に評価してくれている。「AIと農業、両方わかる人材は貴重だから」と。

画面に映る成長曲線を見つめながら、舞は三年前の会話を思い出していた。

「人工知能かぁ...面白いねぇ、舞」

病床の祖父は、タブレットに表示された彼女の仕事を、か細い指でなぞっていた。プログラミングの基礎を教えてくれた祖父は、先進的な農家として知られる人だった。今でも実験農場では、彼が開発したという独自のAIシステムが動いているらしい。

「でもなぁ...」

そこで祖父は言葉を切った。何を言いかけたのか、今でもわからない。

アラートの音が、思考を現実に引き戻す。新しい成長アルゴリズムのテストが完了したようだ。データは完璧。でも、この数値の海の中に、本当に植物の命は宿るのだろうか。

「あれ?」

画面の隅に、見慣れない数値の組み合わせが浮かび上がった。エラーログだろうか。確認しようとした瞬間、スマートフォンが震える。

実家からだった。

「もしもし、舞?」
「ああ、母さん。どうしたの?」
「実験農場のシステムが、変なデータを出してるの。あなたのおじいちゃんが作ったプログラム...何かがおかしいみたい」

母の声には、普段にない緊張が混じっていた。

「明日の午後、帰れる?」

告げられた状況は断片的だった。実験農場の環境制御がおかしい。ドローンが予定外の動きをする。祖父の残したシステムが、まるで意思を持つように独自の判断を始めている――。

舞は立ち上がり、窓際に歩み寄った。ガラス越しに映る自分の姿が、夜景に溶け込んでいく。都会の明かりは、どこか冷たい。

モニターに戻ると、先ほどの見慣れない数値が、まだ点滅を続けていた。画面の中で、緑色のラインが不規則な波を描き始める。まるで、誰かが手書きで描いたような曲線。

思わず、胸の奥が熱くなった。

この数値の向こうに、祖父は何を残そうとしたのだろう。営々と積み重ねてきた農の知恵を、デジタルの海に封じ込めることなんて、本当にできるのだろうか。

「舞さん?」

後ろから、また北野の声がする。

「すみません...明日から、少し休暇を取らせていただけますか」

告げながら、彼女は画面の数値を保存した。キーボードに手を置く感触が、幼い頃、祖父と一緒にプログラミングを学んだ日々を思い出させる。

外は、すっかり夜になっていた。東京の空に、星は見えない。でも、実家の空ならきっと——。

舞は、静かにシステムをシャットダウンした。明日は、久しぶりに土の匂いを嗅ぐことになる。そう思うと、懐かしさと不安が、波のように胸を揺らした。

モニターが消える直前、最後に浮かび上がった数列が、どこか祖父の筆跡に似ていた気がした。


1-2:実家からの連絡

携帯を耳に当てたまま、舞は立ち尽くしていた。母の声が、都会の喧騒を切り裂いて響く。

「昨日の夕方から、おかしくなり始めたの」

母の説明は、やや取り留めがない。実験農場の環境制御システムが勝手に温度を変える。監視カメラの映像が突然、数年前のものを再生し始める。ドローンが、プログラムされた経路を外れて飛び回る——。

「誰かハッキングしてるのかと思ったんだけど...」

それは考えにくい。祖父の残したシステムは、インターネットから完全に独立している。クラウドも使わない、頑固なまでのローカル仕様。その選択を、舞は密かに古臭いと思っていた。

「あと、変なんだけど...」

母の声が僅かに震える。

「実験農場の隅に、季節外れの花が咲いてるの。おじいちゃんが昔、研究してた品種...もう何年も見てなかったのに」

思わず、舞は目を閉じた。

幼い頃、祖父と実験農場で過ごした時間が、断片的に蘇る。土の感触。プログラムの画面。メモ帳に残された謎めいた数式。

「データ、送れる?」
「ごめんなさい。おじいちゃんのシステム、外部との接続は完全に遮断されてて...」

そうだった。だから直接、確認するしかない。

「明日の午後には着けると思う」
「ありがとう。でも、無理はしないで」

心配そうな母の声に、少し胸が痛んだ。卒業後、実家には年に数回しか帰っていない。祖父の病状が悪化してからは、さらに足が遠のいていた。

「大丈夫。私にできることなら」

電話を切ると、オフィスの空気が一段と冷たく感じられた。モニターの隅で、まだあの不可解な数値が点滅している。偶然だろうか。それとも——。

引き出しから古いノートを取り出す。祖父直伝のプログラミングノート。表紙が擦り切れそうなそれを、舞は大切に持ち歩いていた。開くと、かすかに土の匂いがする。

ページをめくると、祖父の走り書きが目に入る。

『デジタルの世界に、命は宿るのか』

その問いの横には、見覚えのある数列が書き込まれていた。今、画面に表示されているものと、どこか似ている。

「やっぱり...」

つぶやきながら、舞はノートを鞄に入れた。急いで、明日の準備をしなければ。

背後のモニターで、緑色のラインが不規則な波を描き続けている。まるで、誰かの心電図のように。あるいは、芽吹きを待つ種の、小さな鼓動のように。


1-3:帰郷

特急の車窓から見える風景が、徐々に記憶の中のものに重なっていく。高層ビルが姿を消し、代わりに田園が広がり始める。水田には刈り跡が残り、畦道にはドローンステーションが点々と設置されている。

舞は持参したタブレットの電源を切った。画面に映っていた不可解なエラーログが、まだ頭から離れない。

「まもなく、終点 穂倉駅に到着いたします」

車内アナウンスが流れる。地方都市の名前に、懐かしさと共に微かな緊張が走る。

駅に降り立つと、空気が変わった。都会の喧騒が嘘のように消え、代わりに土の香りが鼻をくすぐる。プラットフォームの端には、農作物の集出荷を知らせる電光掲示板が点滅している。

改札を出ると、すぐに母の姿が目に入った。

「舞、お帰り」

簡素な身なりながら、凛とした佇まいは変わっていない。母・美咲は、実家の農業を支えながら直売所を切り盛りしている。夫を早くに亡くし、一人で舞を育て上げた。

「ただいま」

照れくささを隠すように、舞はキャリーバッグを引く手に力を込めた。

「まっすぐ実験農場に行く?」
「ええ、データの確認を...」
「その前に、お腹が空いてるでしょ」

母の車に乗り込みながら、舞は小さく頷いた。

車は郊外へと向かう。道路脇では、自動走行の農業機械が整然と作業を続けている。その上空を、巡回監視用のドローンが飛び交う。

「あそこに見えるの、覚えてる?」

母が指差した先に、大きな木造倉庫が見えた。「おかえりマルシェ」——母が経営する直売所だ。古い蔵を改装した建物は、近代的な農業施設の中で、どこか違和感なく佇んでいる。

「相変わらず、賑わってる?」
「ええ。若い農家の子たちも出荷してくれるようになってね」

駐車場に着くと、様々な年代の人々が野菜を手に出入りしていた。建物の軒下には、祖父が好んで育てていた朝顔が今も咲いている。

店内に入ると、懐かしい香りが漂ってきた。新鮮な野菜、漬物、土の匂い。レジ横の端末では、在庫管理システムが自動で発注作業を行っている。

「少し座って」

奥のカフェスペースに案内される。古い梁が露出した天井の下、テーブルにはタブレット端末が置かれ、来客が商品の生産履歴を確認できるようになっている。

温かい味噌汁が運ばれてきて、舞は思わず目を細めた。

「相変わらずの味」
「おじいちゃんの好みに合わせて作ってるから」

何気ない会話の後、母の表情が僅かに翳る。

「システムの話だけど...」
「うん」
「おじいちゃんが残したプログラム、私たちには手が出せなくて」

実験農場の環境制御システムは、祖父が独自に開発したものだった。クラウドに依存せず、外部からのアクセスも制限される特殊な仕様。その代わり、驚くほど精緻な制御を可能にしていた。

「昨日から、まるで意思を持ったみたいに...」

母の言葉に、舞は眉をひそめた。

「具体的には?」
「温度管理が勝手に変わる。光量も。でも不思議と、植物は全然痛んでない。むしろ、生育が良くなってるくらい」

窓の外では、夕暮れが深まっていく。農場の上空を、ドローンが光点のように飛び交っている。

「おじいちゃんは...変わりない?」
「ええ。相変わらず、ほとんど話せないわ」

舞は黙って頷いた。脳梗塞の後遺症で、祖父はもう長らく寝たきりの状態だ。だが時折、研究のことを語り出すことがあるという。

「でも、あなたが来るって言ったら、久しぶりに表情が変わったわ」

その言葉に、胸が締め付けられる。最後に会話らしい会話ができたのは、いつだっただろう。

「実験農場、見に行きましょうか」

立ち上がる母の後ろ姿に、疲れが見えた。直売所の経営、農場の管理、祖父の介護。全てを一手に引き受けている彼女の強さと、その限界を、舞は感じ取っていた。

外に出ると、秋の風が頬を撫でていく。実験農場は、すぐそこだ。

祖父が遺したシステムは、一体何を語ろうとしているのか。

夕闇が迫る空の下、舞は深く息を吸い込んだ。土の香り。デジタルでは決して表現できない、確かな命の気配が、この場所には満ちている。



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