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M先輩の思い出 5

今、中居くんの問題が、クローズアップされておりますが、
別に芸能人だけではなく、性加害、性虐待の問題は、世界中、いたるところで起こっています。

〝性〟が支配欲のツールではなく、本当の意味で、〝愛〟と同列で語られますように。
人が〝性〟の搾取をやめて、健全な〝愛〟の発露となりますように、
そう祈ります。



それから、M先輩とは、なんとなく疎遠になった。

私は専門学校の三年生になり、卒業制作や卒論の脚本に取り組まなかければならなかったし、先輩は先輩で、アルバイトに勤しみつつ、役者としての道を模索していたからだ。

けれど、本当は、私に、〝彼氏〟が出来た事が一番の原因だった。

その頃、私は、学校の同級生と半同棲をはじめていた。

初めて〝彼氏〟が出来た私は、すっかり舞い上がり、
脚本家になりたいという夢も、卒業後の就職のことも、
いつの間にか、頭からすっ飛んでいた。

そして、妊娠してしまったのだ。

前にも言ったように、脚本ゼミの三年生の後期は、
自宅にて卒論の映画一本分の脚本を書くというのが、課題だったため、
私は学校の誰にも気づかれずに、出産するつもりだった(それが可能な環境だった)。 

初めての妊娠、そして、結婚問題、新たに二人で住む家を探したり、双方の親を説得したり・・・と、目まぐるしく時が過ぎてゆき、私を取り巻く環境は大きく変わり、そのうち、M先輩との付き合いもなくなってしまった。

あの時、書こうと思っていた脚本のテーマは、故郷の島に降りかかった戦後の混乱時のことだった。

私の島は、戦後、日本から切り離され、アメリカの支配下に置かれた。

日本人なのに、日本ではなくなり、そうして、一番困ったのは、子供達に教えるのに教科書がない、ということだった。日本からの物資は何も届かず、もちろん、その中には教科書もあった。

そんな状況の中で、二人の勇気ある教員が、密航をして教科書を取りに行くという実話をもとにした、冒険譚を書きたかったのだ。

私は、夏休みに田舎へ帰り、当事者から話を聞く事が出来て、かならず完成させるからと、約束をしたのにも関わらず、その脚本をついに完成させることが出来なかった。

私は、毎日、自分の身体の変化と生活の激変にすっかり精神的に不安定になり、担当教諭に叱られながらも、結局は脚本に向き合うことが出来なかった。

人生に降りかかる、さまざまな困難さが、私に脚本に集中する力を奪っていたのだ。

そんな中で、M先輩に会いに行ったことがあった。

その当時、M先輩は、カラオケ屋でバイトしながら、相変わらずオーディションに挑戦する日々を過ごしていた。

だが、食費もままならない生活で、以前、話していたのは、
「ナカるん♪、こうすればお腹が空かないんだよ~」と、
目の前で、コーラの2リットルボトルをシャカシャカと勢いよく振り、
その泡立ったものを飲むという行為だった。

コーラの泡でお腹を満たす。
そうすれば、コーラも減らず、無限に飲めるじゃん!と、
先輩は得意げに話していたけれど、

私は心の中で、こんな状態で大丈夫かいな?とは思っていた。

案の定、ある日、黄疸が出て、病院に行ったら、即入院で、
「B型肝炎です」と医者に告げられたらしい。

その時、先輩は医者から、
「最近、東南アジアに行きましたか?」と聞かれたらしい。
東南アジアに行くどころか、旅行なども出来ない状態なので、否定すると、盛んに首を捻られ、
「じゃあ、性行為?〇〇でしました?」
と聞かれたらしい。

思わず、ぶんぶん頭を横に振って、否定したようだが、もちろん、思い当たることはあった。
仕事をエサに、処女を奪われた時だ。

その事は、先輩のトラウマになっており、更に病気までもらった! と考えたら、顔から火が出るくらい恥ずかしくなって、全身で否定したという。

そんな話を電話口で聞かされて、しかも、先輩が入院している病院が、私が産科で通っている所だったため、定期診察のあと、病室にお見舞いに行くことになったのだ。

本当は、半ば強制的。
「ねぇ、お見舞いに、来て、来て~!」と例の調子で言われたのだ。

仕方ない。私は行くことにした。


その頃、私のお腹もだいぶ大きくなっており、病室で、相も変わらず高いテンションではしゃぎまくっていた先輩は、最後に、
「ねぇ、ナカるん♪、お腹触っていい?」と聞いて来た。

その時だけはテンション低く、こちらを窺うようにしていた。

私は、一瞬、とまどったけれど、「いいですよ」と答えて、彼にお腹を触らせてあげた。

先輩はよろこんでいたけれど、正直こちらは不安で仕方なかった。

「大丈夫かな? 子供にうつらないかな?」と。

もちろん、そんな事はおくびにも出さずに・・・。

家に帰ってから、そのことを、同棲相手に話すと、ものすごく怒られた。

「子どもに何かあったらどうするんだよッ!」と。

しかし、M先輩の普段は見せないしおらしさ、なんだか自分が汚いものにでもなったかのような、おずおずとした様子に、無碍にも断れなかったこともまた事実で・・・
私としては、後悔しながらも、子供の無事を祈るしかなかった。

それからしばらくして、子供は生まれた。

卒業式には、臨月で行けなかった。
その頃、ようやく籍を入れた夫に出て貰い、二人分の卒業証書を貰ってきてもらったのだった。


つづく


こちらも過激・・・?