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話す読書
行きつけの古本屋に行って、面出しされていた「旅のラゴス」。
十年ぐらい前に本を開いて、なぜだかすぐに挫折して、売ったか物置の奥底にしまったかで今は手元にない。
改めて「旅のラゴス」の表紙を見るとかなり好みだ。
そんな本が、行きつけの古本屋で、大量の本が床にも山積みになっている中、わざわざ面出しされているわけだ。
直感を頼りに迷わず手に取りレジに置いた。
家に帰って、その日は子どもと遊んだりして読めなかったので、翌朝読むことにした。
朝、一章の「集団転移」という話を読んだ。
あまりの面白さに瞳が潤んだ。
ただここで大きく舵を切ってしまうのだが、今回はこの「旅のラゴス」の話ではなく、昔読めなくても今読めることがあるということを記録しておきたい。
なぜ読めるようになったのか、最近始めた音読が読解力に深く結びついている。
最近気づいたのだが、ぼくは書いたり読んだりする時に、口が無意識に動いている。
つまりちっちゃく音読をしている訳だ。
だったら誰もいない朝はしっかり声を出して行なった方が理解しやすいに決まっていると思ったのだ。
それと音読のよさは「理解のしやすさ」だけではない。
「楽しさ」がある。
音読を楽しもうとするのではなく、話すことを楽しもうと意識している。
ぼくは誰かと話すのがとにかく好きだ。
しかし音読は受け止める人間はいない。
でも否定されたりすることもない。
そこに存在するのは信じられると本と自分だけである。
お風呂で歌う感覚に近い気もする。
声を発する場がほしいのだ。
流暢に話すユーチューバーのように自分の頭の中を自分の言葉で発するだけじゃ、いつか飽きが、というより知のストックが切れる。
でも本であれば、本の内容をさも自分の知識のように話せるわけだ。
自分の口から普段使わないような言葉が出て、それを吸収している感じがしてなんだか嬉しい。
音読を楽しもうとか、スポーツを楽しもうとかっていうより、自分の行為を細分化して、何をしている時が1番楽しいかを知り、話す行為が好きなのであれば、なるべくどんな状況でも自分がそうできるようにするのが楽しく生きるコツなのかもしれない。
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