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「外国人選手引き抜き」戦争

81年、全日本プロレスとの仁義なき引き抜き戦争が勃発した年である。

5月7日、京王プラザホテルにおける『第4回MSGシリーズ」前夜祭の席で新間氏が全日本のトップ外国人、アブドーラ・ザ・ブッチャーのIWGP参加を発表。翌8日、川崎市体育館にブッチャー本人が出現したことで戦争の火ブタが切られた。

川崎市体育館に現れたブッチャーは「IWGPのチャンピオンベルトを取るためにやってきた。必ず猪木を倒してベルトを取る」と挑発すると、猪木は「私は今までブッチャーのファイトなど認めていなかった。でもこうして戦いの場に出てきた勇気と行動力は称えます」と歓迎しながらも「ただ、彼が今までと同じようなファイトをしている限り、私には絶対勝つことは出来ない」とやり返した。

このブッチャー引き抜きに先駆けて、4月7日に新日本事務所で記者会見を行った新間氏は、全日本のジャンボ鶴田、タイガー戸口(キム・ドク)、国際プロレスのラッシャー木村、アニマル浜口にIWGP参加を呼び掛けている。
戸口は、この記者会見前日に全日本に辞表を提出。5月1日、ヨーロッパに発つ前に羽田空港でフリーとしてIWGPに参加することを表明した。

これらの動きに激怒したジャイアント馬場は、新日本の2大外国人エースであるタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンの引き抜きを画策。

以降、新日本も全日本もテレビ中継の顔ぶれが日に日に変わっていくこととなる。

シンやブッチャーは、この移籍により輝きを失ってしまい、また、外国人選手のギャラの高騰にも繋がり、この引き抜き戦争は、日本プロレス界にとってあまりいい結果にはならなかった。
しかし、スタン・ハンセンの移籍だけは大成功となった。

1981年末の世界最強タッグリーグ戦へ乱入という形で登場したスタン・ハンセン。
場外でテリー・ファンクへウエスタンラリアートを敢行し、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組を優勝へと導いた。

また、1982年2月4日東京体育館で行われたジャイアント馬場との初対決では、プロレスラーとして下り坂だった馬場を復活させることとなり、ジャイアント馬場の強さを再認識する試合となった。
試合結果は、12分39秒 両者反則だったが、試合内容は、ジャイアント馬場の圧勝だった。

この時、馬場は44歳、対するハンセンは33歳。

その後、スタン・ハンセンは全日本プロレスでNo.1外国人選手となり、長く日本のマット界で活躍することとなる。

今となっては、この引き抜き戦争は、ジャイアント馬場(全日本プロレス)の圧勝に終わったと言える。

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