『桜』、ある物語を私は読み返す
駅のホームに立っていると足の指先が鈍く冷える。毎年思うが春は自分が思い描くイメージよりもずっと寒い。暖かくなっては冷え込むを繰り返し、まだ寒いなと思っている内に桜の花がついに咲く。
例年、開花予報もろくに聞かずに過ごす私は、いつの間にやら咲き誇る桜の花を「今年も咲いた」とただぽつんと思う。
でも今年は桜が咲く時期を珍しく待っていた。
それはある物語をもう一度読み返すためだった。
『桜』
そう題された文章がダイレクトメールで送られてきたのは、ひと月も前のことだった。送り主はその文章をエッセイだと言ったが、私はまぎれもない小説だと思った。だから今回も物語として読み返す。
そして紹介文を書く。
これはひと月前、私の企画する“あなたのnote読みます”に応募されてきたこの『桜』の物語に目を通した時から決めていたことだ。これはその名の通り桜の季節にあらためて紹介文を書き。できれば桜が咲く前に発信したいと思い描いた。
書かれた文章が人目に触れ、読者の心に残る。
これは書き手にとっての喜びであると同時に紹介者の喜びでもある。
私ができることと言えば、紹介文を書き、時期を見計らうこと。
それさえできればこの『桜』は多くの人に受け入れられる。そうした予感があったのだ。
もちろん私が発信したとしても届く範囲は狭いものである。でもそこからきっと大きなひろがりをみせるだろう。
それだけのものがこの『桜』にはある。
妹の俳句から展開されるこの物語は妹からの俳句で収束する。
その間に挟まれた四宮麻衣さんの述懐を読んで欲しい。その膨大な文字列は自分語りでありながら、決してそれだけにとどまらない。
読み進めればそれらが全て、人が持ちうる密かなプライドであったり、強がりであったり、弱さであったりすることが分かるはずだ。
家族の中での自身の立ち位置。
父の死。
日常生活の脆さ。
世間の目。
目の前に立ちはだかっているあらがえない現実。
一人で生きる強さを求める自分。
もろもろを抱え込んでしまう自分。
述懐の中に全てが描かれている。
そしてこの物語は最後に、筆者の「今も桜は嫌いである。」との心情で締めくくられている。
上京する四宮麻衣さんに妹さんからの便箋。
春がくる
まいねー東京
行ってしまう
ここに人生の機微がある。
毎年のように否が応でも目に触れる季節のモノ、それが何を想起させるかは人の数だけあるだろう。
それは時に喜びであったり、哀しみであったり、様相はさまざまであると思う。
どの感情が良いというわけでもない。肝心なのはその様相を素直に心に映すことだと私は信じている。
中には受け入れられないこともあるだろう。でもまずはそのままに心に映すといい。その段階で目を背けてはいけない。まだそこで嘘をついてはいけないのだ。
そこを読み違えると人は人として生きてゆけなくなる。生きながらに亡霊になってしまうからだ。
そこから這い上がり生きてゆくためには嘘をつかなくてはいけないとも私は思っている。それがその人の物語になる。
「ところで桜は今でもお嫌いですか?」私は四宮さんに問いかけると彼女は
「桜は、実は嫌いでもないです。作品としてそうするべきだと思いました」と答えた。
それはいい嘘だと私は伝えた。
ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー