投賽の指導者(カサエルとオクタウィアヌス)


彼が幼い頃の話である。
父が敗戦側の勢力に加担したために、全ての権力を失ったため、貧しい少年時代をすごした彼は、戦争で名前をあげるしかないという意識が根強かった。
十六歳になった彼に好機が訪れる。
当時、彼が幼い頃のローマは七キロ平方メートル程の小国だったが、戦争によって領土をひろげ、敵対勢力を支配下においていたが、敗戦勢力の手勢を奴隷に従えていたことで反乱が起こった。
十万人の奴隷たちを従えたスパルタクスは剣闘士である。
剣闘士と呼ばれる奴隷たちで形成された軍は、ローマで最強の勢力となった。
その内乱をおさめようと兵を率いたのがクラッススたちで、内乱は鎮まったもののスパルタクスの首は見つからなかった。
そのため先に軍を戻したポンペイウスの功績とされていた。
クラッススは金を持っていたが、権力争いに秀でてはいなかった。
彼はオリエントを平定して凱旋した自分に対する元老院の対応に不満を持ったポンペイウスと結託して執政官に当選する。
しかし、すでに功なり名を成しているポンペイウスに対し、彼は実績がなく、ポンペイウスと並立しうる実力はなかった。
そこでポンペイウスより年長で、騎士階級を代表し、スッラ派の重鎮のクラッススを引きいれてバランスを取った。
ここに第一回三頭政治が結成された。
民衆派として民衆から絶大な支持を誇る彼は、元軍団総司令官として軍事力を背景に持つポンペイウス、経済力を有するクラッススの三者が手を組むことで、当時強大な政治力を持っていた元老院に対抗できる勢力を形成した。

ヘルウェティイ族がローマ属州を通過したい旨の要求を拒否したことを皮切りに、ガリア人とのガリア戦争へ踏み出すこととなった。
彼がガリア戦争の総督となり、兵糧攻めにより勝利を得るのに八年が過ぎた。
アルウェルニ族の族長ウェルキンゲトリクスとの戦いでは、多くのガリアの部族が敵対したが、アレシアの戦いで勝利する。
これらの遠征により、彼はガリア全土をローマ属州とした。
彼はガリア戦争の一連の経緯を『ガリア戦記』として著している。

その間にクラッススが亡くなった。
クラッススはポンペイウスやルクッルスが成し遂げられなかったパルティア征服の野望を抱いていた。
クラッススは彼を支えたパトロンであった。
クラッススは溶かした金を口に注がれて窒息したのちに、首と右手はパルティア王に献上されたという。
またポンペイウスの元に嫁いでいた娘のユリアが出産によって亡くなった。
これらの事実がローマに戻ったときに自分とポンペイウスとの敵対関係を生む図式となると彼には解っていた。
彼は自派の護民官がローマを追われたことを名目に、軍を率いてルビコン川を越えたことで、ポンペイウス及び元老院派との内戦に突入した。
一月十日にルビコン川を渡る際、彼は、
「ここを渡れば人間世界の破滅、渡らなければ私の破滅。
神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう、賽は投げられた」
と檄を飛ばした。

その後、ファルサルスの戦いで兵力に劣りながらも戦術によって勝利。
ポンペイウスはエジプトに逃亡した。
九月二十九日、アレクサンドリアに上陸しようとした際、エジプトの王、プトレマイオス十三世の側近の計略によってポンペイウスは迎えの船の上で殺害された。
後を追ってきた彼がアレクサンドリアに着いたのは、その数日後だった。
エジプトでは十三歳のプトレマイオス王の姉が反乱を起こして追放されていた。
優秀な指揮官が必要だったエジプト王たちは彼を引き止めていた。
そんな中で、彼は運命的な出会いを果たす。
彼が留められている部屋に送られた献上品の中、絨毯に巻かれてやってきたのが彼女だった。
エジプトでは長女と結婚する兄弟が王になるのは珍しくないが、実権を握っていたのは王の側近たちだった。
ローマは食料が不足しており、ほとんどエジプトからの輸入で賄っている。
彼はエジプトを、若く、賢い彼女の手で統治してほしいと願いだした。
九カ国の言葉を話せる彼女の流暢なローマ語も彼にはエキセントリックだったのだろう。
ナイルの戦いでローマ軍はエジプト軍を打ち負かし、逃げたプトレマイオス十三世は溺死して、戦争は終わるが、彼は十三年間、エジプトにいて、エジプトの女王と共に暮らしたのだった。

彼には妻も愛人もいたが、政略結婚だけで一緒になった女に愛はなかった。
愛人を彼は愛していたが、愛人の方は彼を愛してはいなかった。

彼とエジプトの女王の歳は離れていたが、お互いが無償の愛を与えつづける事で政治を忘れた愛を育むことができた。
お互いの価値観は違っても、互いに相手のために、全てを投げ打つ事ができた。
そして、気がつけば十二年。
彼はエジプトで有意義な時間を過ごしていた。

「ガリア戦記を読んでみたの。
戦争が好きなのね、あなた」
「冗談だろ。
必死なだけだよ。
戦で勝っても成果を認められなければ、戦争で勝ってもローマでは自分の居場所がないなんてザラなんだ。
だから国民にアピールしたんだよ。
愛することのできない女と、愛してはくれない女。
どちらも味方にはついてくれなかった。
愛人の子供はポンペイウス勢力にいたが、俺は見つけたら殺すなと指示をだした。
愛人に媚びただけなんだが、不満で聞いたんだ。
なぜ、敵側につくのかと。
するとアイツは母の入れ知恵だと言った。
俺なら見逃すが、ポンペイウスは見逃さないと。
確かな意見だと俺は確かに見逃した。
ポンペイウスは敵ではあったが、娘の夫となり、孫もいた。
もちろん、自分の身内とも言えなかったが、エジプトに来た時には既に殺されていたのは俺にはショックだった。
クロックスの事もあるが、戦で負けると悲惨な末路が待っていて、俺はそれをよく知っているんだ」
「此処ならエジプトの王でいられる。
ローマに戻れば元老院の操り人形になるかもしれない。
それともローマの王になる?」
「ローマは王を認めていない」
「認めていたこともある」
「今は認めていない。
それが民にとって最善かも解らない」
「エジプトには長い歴史があるけど、やがて滅ぶわ。
それならば自らローマの王に差しだしても構わない」
「もしもローマに戻る事があるのならば、俺もそれを考えてみよう」

彼は、その時点で充分に英雄としてローマ国民の指示を得ていた。
そして、彼のいない間に政治は腐敗し、飢えた国民が内乱を起こした。
そのため、彼は呼び戻された。
ローマの国民を救うために。

「暦がズレているが、確認はしていないのか」
「おそらく、あるべきものが機能していないんです」
「食糧を分け与えるためには仕事を与えなければならない。
博物館や図書館、道路の舗装、求人を出さなければならない」
ローマに戻ると彼の開拓と革命がはじまる。
留守を任せていた部下アントニウスが怠けていた事もあり、民の住める国を造るための政策が必要だった。
「そもそも、あなたはローマを離れるべきではなかったのだ」
国民の支持は得るが、元老院との政治的ストレスから、彼は癲癇に悩まされた。
「ガリアの民を、いつまでも奴隷にするのではなく、彼らに自治権を持たせ、ローマ国民として認めることで、国は富む」
と、改革を推し進める中、元老院との対立を煩わしく思った彼は王になるべきではないかと自分に問いただしている。
そんな中、エジプトの女王がローマにやってきた。
彼との間に息子が産まれたからだった。
彼女はエジプトごと彼に全てを捧げる気だった。
彼は、彼女の想いに応えるために執政官の地位につき、執政官は元老院の意見を聞かずに改革を進める事ができるとした。
「パルティア侵攻を計画している。
クロックスは砂漠を無理に進めて行ったことが敗因だった。
だから今回は遠回りしてでも砂漠は避けるべきだと思う。
クロックスに必要だったのは優秀な参謀だった。
それをブルータスに頼みたいんだ」
彼は愛人の息子を後継者のように優遇していた。
いづれは息子にとってかえるつもりではあっただろうが。

「それが最終的な動機になったんだろうな」

彼はローマの元老院議場で暗殺された。
首謀者はロンギヌスであり、彼が気にかけたブルータスも謀議に加担していた。
ブルータスが彼を裏切るのは二度目だった。
暗殺後、元老院は恩赦の決議をだし、彼らを罪にとわなかった。
四方から数十人の議員に刺殺された彼の死を避難したのは民衆だけだった。
彼は多くの女性と関係を結んだが、彼のために、その死を嘆いたものがいたのだろうか。
彼の遺した財産は甥の私が受け継ぐこととなった。

ブルータスもアントニウスも彼に従って地位を確立していたのだが、彼らは容易に裏切ったのだ。
彼もそれを予期していたのかもしれない。
十八歳で跡継ぎになったのは、彼が後継者に指名していたからだった。

「私は正しい王になれたのだろうか」

彼の死後、彼の神格化を認めなかったアントニウスはローマ市民や退役兵の指示を失っていった。
一方、私は神の子どもと称されるようになった。
ブルータスに勝利し、エジプトにいったアントニウスをも失墜させ、エジプトの女王を自害に追い込んでまで帝政ローマの皇帝となった。

「正しい王とは言えないが、彼の後継者としては相応しかったのではないだろうか」

と。

彼とはユリウス・カサエルの事である。

カサエルとエジプトの女王クレオパトラ七世の間には十七歳の息子がいて、クレオパトラともども死ぬことになる。
クレオパトラ七世を傷つけてはならないと命令してはいたのだが、アントニウスの死を知った彼女は自害したのだった。
私は彼女の願いを叶えるためにアントニウスと共に手厚く葬ってやることにした。
またアントニウスとの子供たちには手をかけぬように命令した。

こうして、ローマの内乱は終わりを遂げた。

「内乱の一世紀」に終止符を打ち、「パクス・ロマーナ」を実現したアウグストゥスは、紀元十四年八月十九日、ポンペイ近郊のノラの町で七十六歳で死去した。

最期の日、友人に「私がこの人生の喜劇で自分の役を最後までうまく演じたとは思わないかね」と尋ね、「この芝居がお気に召したのなら、どうか拍手喝采を」と言った彼の死後、カレンダーにはAUGUSTと、男の名前が加えられた。

古代ローマ、最後の重鎮であり、帝政ローマの初代皇帝のことである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?