見出し画像

虚構の網

 第一章  物語の概要。

はじまり。

その亡骸は空から降ってきたというから自殺である。
そんな馬鹿げた解釈をする者もいたが、見てみると無数の切り傷が残っていて血の凝固具合いから、刺されたのは死の直前であった事は推測できた。
つまり男は何者かに追いつめられて墜落したのだろうと私は思った。
傷は、深いものや浅いもの、強い力と弱い力、右利きであり左利き、無数の特徴を持っていたが、その正解は、いまいち判然としなかったから不思議である。
彼の身元は直ぐに判明する。
その屋敷の主であってイタリア貴族のフランチェスコ・チェンチである。

彼は生前、教皇庁裁判官と騒動を起こすような厄介者であり、以前、別の罪で投獄された時には娘のベアトリーチェが頻繁に受ける暴力や虐待、近親姦について当局に訴えた事もあったが、当時の貴族は滅多な事で裁かれる事がなく、すぐに恩赦を受けて放免されていた。
間もなく娘が自分を告発した事はフランチェスコの知れる所となり、フランチェスコはベアトリーチェと妻のルクレツィアをローマからて田舎の城へと追放した。

フランチェスコにとってルクレツィアは後妻である。
前妻のエルシリア・サンタクローチェの間には長男のジャコ。妹のベアトリーチェがいたが、ルクレツィアの間にもベルナルドが生まれていた。
ローマのユダヤ人居住区にチェンチ宮と呼ばれる豪邸に住み、それとは別にローマのリエーティ近郊にペトレッラデル・サルト要塞という城も所有しており、裕福ではあったが吝嗇家であって、遠くの学校に入れられたジャコや修道院の寄宿学校に入ったベアトリーチェは表向き裕福な家庭にあるよう思われていたが、その実、仕送りも碌に送られず物乞いをしながら実家に帰る事もあった。

自分で自由にできるお金が少しでもあれば、もう少しマシな生活を送れたのに。

そんな嘆きごとをベアトリーチェから聞いたルクレツィアは同情した。
確かに、それは同情の筈だったのに。
幾度か彼女を慰めているうちに、これまでになかった異常な感情が芽生えている事に気がついてしまった。
それから吹雪の中で温もりを求めるように引き寄せられて、彼女の言うが儘の人間になってしまっていた。
それを愛と呼ぶのならば奇妙なもので、彼女はフランチェスコの事は好きでもなかったが、肉欲的虜となっていたため拒むという考えも消去されて生きていた。
しかしベアトリーチェの言葉があれば、彼女はフランチェスコにも敵対できる勇気が湧くのだと言っていた。
「あなた、ベアトリーチェと関係を持っているんですね」
それは勿論、肉体的に。
「それが、何か問題になりますか。
 確かにフランチェスコとの行為は気持ちが良かった。
 でも、ベアトリーチェとの関係は、それ以上なの。
 彼女の淫らな言葉ときたら、まさに快楽の海へと誘うようで、私の心を骨抜きに変えてしまう。
 それがとても愛おしいの。
 わからないでしょうね、あなたには」

兄と妹。

 鼓動が波をうっていた。
 静かな興奮が徐々に自分の中に芽生えて息づいているのがわかる。
 そんな状況であったのは、フランチェスコの兄のジャコモだった。
「あなたはベアトリーチェがフランチェスコに殺意を持っていたと思いますか」
 聞くと、
「殺意なら誰しも抱いていた事でしょうね。
 あなたはフランチェスコに会った事はないんでしょうね。
 世の中で最も下劣で邪悪な欲深き男ですよ」
「ベアトリーチェさんに暴力を振るい、時には強姦した事もあったと訴えられた事もあります」
「強姦?
 あるでしょうね。
 でも、あの女とは皆が関係を持っていましたから。
 召使いにいたるまでね。
 でも、確か最初にあれを抱いたのは紛れもなく俺じゃないですか。
 あれが十四歳の頃に、帰るとまたフランチェスコに折檻されると想像して、恐怖のあまりに失禁してしまったんですよ。
 それで適当な拭くものがなかったので、口で舐め上げていたら何となく。
 でも、いま思えば誘ったのは、あいつの方からだったと思います。
 フランチェスコの暴力は、確かに執拗で問題だったと思いますが。
 ベアトリーチェが殺したというのならば、それが動機と考えられないような気もします。
 真実はベアトリーチェにしか解らない事ですが」
 ジャコモは無学では無かったが無能である。
 ルクレツィアを女として見ているジャコモの視線に、ルクレツィアはとっくに気づいていて、時折、悪寒を感じて不気味に感じてたと彼女が言っていたのを思い出した。
「ルクレツィアがフランチェスコを殺害するとしたら」
「考えられませんね。
 ベアトリーチェが関わっているならば、あるいは」

 最初から最重要容疑者はベアトリーチェだった。

 今いる召使いを面接したのもベアトリーチェ。
 日陰にあっても彼女は巧みに住人すべてを思うがままに操れたのではないかと、そんな幻想を抱かずにはいられなかった。

召使いのお婆さん。

「私の名前は△△です。
 同僚には××□□さんがいます。
 ××さんはもういらっしゃいませんが」
「フランチェスコさんが亡くなられたあの日、その時刻にあなたは何をなさっていましたか」
「さぁ何をしていたことやら、いつも仕事に追われていますので、働いてはいたんでしょうが何をしていたかまでは覚えていませんよ」
「何か最近気になった事はありませんか」
「いえ、特に、何か変化はあるのかもしれませんが、些細な事を気にしている余裕など、私にはとてもとても」
××さんは何故、辞められたんですか」
「自主退職ではありませんよ。
 逃げたわけでもありません。
 彼女は解雇されたんです」
「解雇?
 いったい何をやらかしたんです」
「私、以前から××さんんは、とてもお嬢様に似ていると思っていました。
 だから、襲われるんじゃないかと思っていました。
 とても顔立ちが整っていましたから。
 注意喚起を促すつもりでお嬢様にも、××さんってお嬢様に似て、とても優雅で下卑たところがありませんねって、直接、お嬢様に伝えた事もあるんです。
 お嬢様は少し嫌そうな顔をされていましたので、それっきり強くは言わなかったんですけれども、一番の被害者のお嬢様には充分に伝わったんだと思います。
 ××さんの事を、それまではとても姉妹のように可愛がっていらしたのに、急に解雇を言い渡したんです。
 その事でフランチェスコ様には又、折檻を受けていたようでしたけれど、そうまでしてお嬢様は彼女を犠牲者の一人にはしたく無かったんだと思います。
 □□さんは××さんとは非常に親しい男女の仲でしたが、今ではお嬢様のお気に入りに。
 もしかしたらお嬢様は□□さんの事が好きで三角関係の縺れで、××さんは解雇されたのかも知れませんね」

召使いの若い男。

「理不尽な愛など断固拒否しなければならない。
 幸せなど足踏みしていれば逃げ去ってしまう。
 その後、新たな幸せはやってくるのだろうか。
 そんな確証は私にはない。
 だから、此処に辿り着く。
 この想いに辿り着いた。
 彼女を僕は永遠に愛しています」
「それは××さんの事ですか。
 それともお嬢さんのことですか」
「もちろん。
 お嬢様の部屋にいる彼女の事です」
「あなたはお嬢様のお部屋に出入りしている?」
「召使いですからね」
「最近、気になったような事はありませんか」
「さぁ、ずっと孤独なので、特に周囲に関しては無頓着で気になるような感性なんて僕にはありません」
××さんと懇意でいらっしゃったとか」
「また、あの婆さんが吹き込んだんでしょ。
 出鱈目ですよ。
 若い女性がいたら、すぐに僕との噂を流すんです」
「では、お嬢さんとやはり」
「憧れですよ。
 僕みたいな下賎の人間、相手にしますか?
 されると思いますか?
 そう言う事ですよ。
 ただ、スベテニオイテ尊敬の対象なんですよ。
 あの方は」
□□さんの郷里は何方になりますか。
 少し似た訛りのある方が以前にいたもので気になりまして」
「いま、それが重要な話題だとは思えませんが、いったい何を言われているんですか」
「いえ、ただ気になってしまって。
 確かに本題ではありませんが」
「僕は彼女の高貴さを尊敬しており、尊重しています。
 あの人のためなら、たとえ身を滅ぼそうとも構わない」
「つまりお嬢様の命令ならば、フランチェスコさんを殺害したかもしれないと」
「もしもカノジョが望むならば、それはスベテニオイテ優先される事なのです。
 もちろん、僕にとってはね」

 ベアトリーチェ

目の前の女性は二十二歳で、噂ほどの美人では無かったが、眼の大きな、そして幼さの残るあどけない少女のように私には見えた。
「〇〇さん?
 官憲の方じゃなかったかしら。
 以前、一度、会った事がありますね」

「そうでしたか。 
 生憎、身に覚えはないんですが」
「でしょうね。
 あなたは、わたしに一瞥もくれずに立ち去っていった。
 でも、わたしは、あなたを覚えています」
「熱のあつい女性ですね。
 フランチェスコさんにもそうでしたか」
 その熱さは憎しみの焔。
 その熱気が痛みにも似て深く突き刺さる。
「さぁ、それは解りません。
 人間の感覚も価値観も人それぞれ。
 そこに他人の感情が介入して理屈づけるなんて愚の骨頂。
 わたしが他人にどう思われているかなんて考えないのと一緒。
 他人にどう思われたいとかもない。
 だから、わたしは目的のためには絶命さえも厭わない」
「その目的とはフランチェスコを殺害すること?」
「あの人は勝手に落ちたんです。
 わたしたちに何の関わりがあるんです」
「落ちる前に致命傷と言っていい程の無数の傷を身体中に受けていた」
「女の身にできるとでも思っているの」
「恋人の召使いが手伝ったのでは?
 二人でならば」
「彼がフランチェスコよりも剛健に見えるのならば、そうでしょうね。
 でも、実際はそうではないし、彼は多くの他人に恨みをかっていた。
 お酒も程を超えて毎夜、飲んでいたし、たとえ変死したとしても、その口実は一つではない。
 それに世論。
 世間では、わたしの身を案じ救いの手を差し伸べるべきだという風評が流れています。
 どうするのが利口なのか、あなたに解らない筈がない」

教皇の言葉

「どうすれば利口なのか、解らないわけではないだろう。
 もちろん、私の決定は言うまでもない事だが」
 ローマ教皇、クレメンス八世の言葉だった。
「重要なのは世論や人情に訴えかけた慈悲などというものではない。
 どうすればチェンチ一族の財産を我が物とできるのかである。
 つまり、誰が殺しただの、主犯は何者だなどと言うのは戯けた話で、罪は全員が負うべきだと言うことだ」
 そして、処刑が命じられた。
 フランチェスコとルクレツィアの息子ベルナルド以外には。

負担

「権力者には逆らえない。
フランチェスコにも、クレメンス八世にも。
弱者の嘆きは遠吠えとしても聞き入れられる事がなかったんだ」
 錆びついた愛は無惨にも粉々に崩れ落ちる。
 独占したかった愛すらも、もう誰の目にもう残ってはいない。
 ただ記憶の中にはあるだけで。
 もう、それも薄れてはいるのだけれど」
「いったい誰がいたのだろう」
「夢の中に?」
「いえ現実に」
「あなたは何をしたの?
 何をすれば彼女はこんな風になってしまったの」
「彼女は何も変わっていないわ。
 すこし催眠状態に陥って混乱しているだけ。
 もしくは興奮しているのかも。
 それはホンの少しなんだけれど」

 □□が死んだのは間も無く、拷問の末の出来事だった。
 死の間際まで口を破る事はなく、また拷問に耐えられるほど丈夫でもなかった彼は息絶えた。
 それを聞いて、ジャコモは口の軽い△△を殺害しようと計画した事から、彼も事件への関与が疑われた。
 そして、その彼を庇う身内、ベアトリーチェ。
 ベアトリーチェを庇うルクレツィア。
芋蔓式に全員が逮捕されることになった。

裁判所は全員に有罪判決を下し、死刑を宣告した。
ローマ市民は事情と動機を知って判決に抗議し、世間は三人に同情しており、混乱をまねくためと死刑は短期間延期されたものの、一五九九年九月十一日未明。
処刑場の足場が組まれたサンタジェロ城広場に移送された三人は、それぞれに殺害されたのだった。

第二章 ベアトリーチェ。

私、とまらないんです。
 とめられないんです。
 とめられなかったんです、本当に。
 莫迦げているかもしれないけれど、初めてだったものだから。
 恋って何か解らなかったから、こんなに感情に支配される事があるなんて経験した事もありませんでしたから。
愛って何かも知らない癖に。  わかった素ぶりをして生きて見ていた。
ほんとは、わかってはいないのに。

心が涙で泣きぬれて。
悲惨な現実が確固たる事実として揺るぐ事なく目前にある現実。
これは真実であり、並行して、わたしの頭を悩ませている事実でした。
それもそうか。
恋なんて。
贅沢な貴族のお遊びでしかないんですもの。
わたしの日常には不似合いな装飾でした。
そう思っていました。
あの人に飼い慣らされるまでは。

「ベアトリーチェ?
 様ですか?」
「それをアナタニアゲタイノ。
 アナタがベアトリーチェになればいい」
私が、あなた様に?
名前なんて、どうでもいいの。
個人は個人だけで成り立つものではないの。
  あたしが、そもそも最初のものとは限らないし、最初だからといって、その人が本物だとは限らない。
 問題は誰が世間に本物だと認知させる事ができるかではないかしら。
 と、あの方が言うから、私はそれを信じて、間に受けてしまったんです。
「キミの事を愛している。
 この宇宙の誰よりも、たとえ運命を違えようが未来に魂を移そうが、この身が粉々になって踏み躙られ原形を失ったとしても、それは永遠に変わらない」
 彼の思わせぶりな態度や行為は気持ちが悪いのに。
 それをまるで自分の得意分野のように甘い言葉を平気で囁くの。
 耳朶に。
 それがなぜか忌々しくて。
 しかし、本心は胸の中に押し込んで、私は別の人格を塗り込んでいったんです。
「まるで夢の中にいる心地です。 
 □□さんの事、私も特別に思ってしまいます。
 それって言葉にすると白々しくて。
 とても言葉にはできません。
 そんなことでいいあらわしてしまえるほど安っぽい感情ではないんです」
「構いません。
 言ってください。
 アナタにとって、たとえ評価に値しないような言葉であっても、それが「ワタシのスベテになる。
 アナタの言葉がワタシの存在意義になるのです」
「そんな無理です。
 言えません。
 言えばそれが無くなってしまうような。
 そこから遠ざかっていくような。
 それを失ってしまうような。
 本当に嫌な気持ちになるんです。
 だから、私に、その言葉は言えません」
「いえ、お願いします。
 どんな災いも試練と受け入れてワタシがあなたを守るでしょう。
 ワタシがアナタを幸せにします」
「そんな、まさか魔法のようなこと。
 無理です。
 私には無理です。
 訪れないと私には解っているんですから」
 涙が頬を濡らしてみせた。
 白々しいと我ながら思ってしまいます。
 だって、愛していないんですもの。
 なんか冷めてしまっているんです。
 ただ自分の言葉に酔いしれて、確かに涙が流れてはいますけど。
 それは感情とは裏腹の言葉でした。

 すこし姿形を変えただけで、私に気づく事もない男の言葉を、真実とは受け入れられないのです。

 以前は、その好意に甘えて身を委ねた事もあったのですが、今ではもう白々しい。 
どんな言葉も信じられないのです。
彼の言葉だけではなく、もはや神の言葉であっても私にはそう。
「殺意を覚えたって言うのなら、そうでしょう。
 裁きを下すのは神のみにあらずとも言いますし」
「いいのよ。
 口実なんて何もいらない。
問題なのは、やるか、やらないかだけ」
「私は、やります」
「そうよ。
 そのために選ばれているのだから」

最初、計画したのは、間違いなくベアトリーチェ・チェンチだったのかもしれない。でも、それを実行したのは、ジャコモだった。
その日はまだ夜も浅く、夕焼け空が眩かった。
この痛みが続くくらいなら、耐え切ることは難しい。
人生を諦めるくらいならば、この手にかけても構わない。
手にとったナイフで背後から切りかかった。
それは発作的な激情からだったが、傷が浅かったせいか、押し返され、フランチェスコの顔を見ると我に帰る時間はあった。
やってしまったという後悔。
これからどうしようかといった迷い。
それを払拭するように続けたのがルクレツィアだ。
「あなたが悪いのよ」
と。
それは囁かな呟きだったが、彼女の手にあるナイフは奥深く突き立てられていました。
 だから、もう見て見ぬ振りはできないと悟りました。
 ジャコモとルクレツィアは召使いの二人にも促して、フランチェスコの体を傷つけるよう指示しました。
 そして、その場においては言い逃れのできない立場にあると、皆が思い想いに感じていた事でしょう。
 それぞれに手に取った刃物で無数の傷をよってたかって。
 それは徹底的に行われました。
 万が一にフランチェスコが無事であった場合、この場にいる誰も無事ではいられないと、彼の性分を知っている誰もが、背に腹はかえられぬ状態に追いやられていたからです。
 でも、私は、それに参加はしませんでした。
 私は、まだ情報に疎くて、それほどに彼の事を憎んではいなかったからです。
 その・・・
 先代の私とは、そこの処の感情を、実は共有していなかったからです。
 それはもしかしたら彼女なりの巻き込んでしまっては申し訳がないという優しさだったのかもしれませんが。

「あなたは何故、フランチェスコに切りかかったのですか」
 聞くと、ジャコモは、短絡的な発作のようなものだと答えました。
「すこしでも裕福に暮らしたい。
 家にお金があっても、それを自由にできるのは俺じゃない。
 フランチェスコだ。
 そうじゃないか?
 お前だって、想いは同じだろ?
 そのためにベアトリーチェと入れ替わったんだろう」
 と、
 知っていても知らないふり。
 それをしているのは私のためではありません。
 それが解っているから、自分のためになったとしても、ちっとも有難くはありません。
 むしろ憎しみすら覚えます。
 きっと大きな利益になっても、私を頭数に入れるわけがない。
 ジャコモがそう言う人間なのは、私には以前から解っていました。
 その癖、実の妹に対して獣のように欲情して、あの方がジャコモを肉体的に慰めている姿を私は何度か見たことがありました。
 その目的が弱みにならぬほど、あの方は多くの男女と関係を持たれていました。
 そのうちの一人が私で。
 おそらくは城内にいる者は皆、彼女に逆らえないほどに、身も心も支配されていたのです。
 その者が認識していようが、いまいがお構いなく。

「あなたは何故、フランチェスコに切りかかったのですか」
 聞くと、ルクレツィアは、今しかないと思ったのと呟いたのです。
 襲いかかったジャコモの姿は、まるで鏡の中にいる自分の分身、その残像による者ではないかと錯覚するほど、自分の心に鮮明だったと。
 それほど、彼女は彼の死を日常的に思い描いていたのでしょう。
 その彼女の頬を伝うのは、涙の線、それが微かな痕となって残っていました。
 少なからずも、彼女は彼に心を残したままで。
 それでも葬らねばならぬ痛みを心に背負っていたのです。
 それが私にも解ったから、私にも彼女に追撃して質問することませんでした。
 ただ、遣る瀬無く、申し訳ない想いが残りました。

「あなたは何故、フランチェスコに切りかかったのですか」
 聞くと、△△は、命令だから仕方がないと、そう言った。
「どうせ、あれはもう助からない。
 助からないと解っているものに肩入れするよりは、これから仕えるべき相手に従うべきだと思ったからですよ。
 あれ、何か可笑しなこと言っています??」
「いいえ」
 私はそういうと踵を返して、彼女には颯爽と背を向けました。
 相変わらず話にはならないと、がっかりさせられたのです。
 聞くべき相手ではない者に話を向けることもあります。
 切迫している時は特にそう。
 
 そして、すぐ先の部屋にいる□□にも聞いた。
 彼は、抜け抜けと、私のためだと、そう言った。
 もちろん本当の私の事は見えていない。
 ベアトリーチェのためだと彼は言うのでした。
 そして、ベアトリーチェは私であって、私ではなかった。
 嫉妬とは、こう言う時に芽生えるものなのでしょうか。
 私は彼を殺してやりたいとさえ思いました。
 だから、それとなく官憲の人に密告しました。
 私が見た時、刃物を持っていたのは□□でしたと。
 最初は、落下の事故死だとは言ってみたのですが、どうやらそれは難しいようでしたので、動転して記憶違いをしたのだと言い加えて、そう言ったのです。
 彼だけが居なくなればいい。と、私は甘い考えで、そう言ったのでした。
 もちろん、それが後々、自分の立場を悪くすることになるとは考えもせずに。
 私は無知で幼稚な小娘だったのですが、そのことに対する認識がまだ、私には充分ではなかったのです。

 ローマ教皇であるクレメンス八世は私たち全員に極刑を言いわたしました。
 正義か悪か。
 ではなくて強者か弱者か。
 ただ、それだけがずっと私たちを悩ませていました。
 そして、私は弱者です。
 常に相手が良くなかったので、勝ち馬に乗ることができませんでした。
 フランチェスコという貴族であったりローマ教皇であったりと。

 私は運が良くなかった。

 私たちに極刑が言いわたされた日のことです。
 □□が亡くなったと聞きました。
 拷問によって絶命したと。
 彼が何故、殺されたのか。
 もしかしたら私の言葉が影響したのかとも思いましたが、世迷言だと気忘れしました。
 私たちも処罰されるならば、所詮は早いか遅いかの事、もしかしたら既に決まっていたのかもしれません。
 世間ではチェンチ一族の財宝を我がものとするためにクレメンス八世が仕組んだこととも言われています。
確かに、ありそうな話です。

私たちはサンタジェロ城広場に移送されました。

ジャコモが木槌で手足を四隅にうたれて、そのまま四肢を引き裂かれた光景に絶句した私は胃の中にあった内服物を粗方、吐瀉してしまって、その悍ましい姿形が転がっているのに、眩暈がして自力で自立することもできない私は引きずられるようにギロチン台の前に。
 そこでは先に引きずられていたルクレツィアが先にギロチンの刃の行方にある台上に首を横たえているのでした。
 私は、両脇を抱えられながら、それを観たのです。
 ルクレツィアであったものの意識を一瞬で途絶えさせた器具によって、その頭と胴体を分裂させられるその様を。
 それで心を決めたのでした。
 もう逃げる術はないのだと、これは心に刻んだ強い覚悟です。
 私は両脇を支える二人の看守の手を振り解くと自らギロチン台のある階段を登り、膝をつきました。
 そして、一度だけ、嘆きを神に訴えたのです。
「なぜ、私がこのような目にあわなければならないのですか」
 と。
 一言。
 それだけ。
 負け犬の遠吠えのように高らかに、その実、この後に及んではどうにもならない運命と諦めていながらも、自らは認めていない想いを。
 決して認めてはいけない想いを、心に秘めたまま私は自らの決意で、その死を受け入れたのでした。

 あくまで、自分は自らの意志で、この世とおさらばするのです。
 
 そう決めて、私は自殺したのです。

 その手段に周囲を利用していただけのことなのです。

そう、自分に言い聞かせて、私は首を処刑台に横たえたのでした。
 

第三章 或る幻

彼女、なんて幸せなんだろう。
こんな汚れた世界に愛想を尽かしても逃げ道を見つけられないあたしとは違って、彼女は死をも恐れてはいなかった。
 死の恐怖を克服した彼女は美しい。
 あたしとは違う。
 憂鬱な時の流れに呑み込まれ、ただ怠惰と堕落を繰り返し、幸福の価値を値踏みしながら、その意味さえも理解できずに誤答する。
 そんな心の貧しいあたしとは違い、高潔だった。
 そして、その美しさは生まれや育ちで身につくものではなく、神様の寵愛によってのみ齎されるものだとあたしは信じている。
 だから、確かな結論ではないかもしれないけれど、彼女の人生は勝利だと讃えてしまった。
 素晴らしくもあたしの代わりに、あたし以上のベアトリーチェを演じてくれた。
 あたし、あなたにベアトリーチェの名前は譲ってもいいと思ってしまうの。
 でも、チェンチ一族の財産は須くあたしのものだけどね。
「ねっ、クレメンス八世?」
 あたしはその男に嘘っぱちの笑顔を振りまいたが、それだけで、男は飼い慣らされた犬のように従順だった。
 あたしのことが好きで好きでたまらない。
 彼は、あたしが飼い慣らしている愛の奴隷だ。
「全員、死刑にしましょう。
 出なければクレメンス、あなたが掌握するのに障害となる筈だわ」
 死刑なんて見せ物は下劣な文化だと好まざる気概のあたしだけども、それを敢えて身内に執行するのは、やはり怨念以外には語る術をあたしは知らない。
 ただ確信をもって言えるのは、あたしが自分を含めて、あらゆるものに憎悪の念を抱いているということで、その憎悪に関しては生まれたての赤子だろうとき稀代の大悪人だろうと分け隔てなく平等にあった。
 あたしは異常な悪意を持って形成された魔物なんだと自分で思う。

「なるほど、クレメンス八世は騙せたとしても、わたしの眼は節穴じゃありませんよ。
 ベアトリーチェさん」
「あらっ、誰かしら。
 あたし記憶力には自信があって、大抵の人の事は記憶にあるんですけど。
 それに、バァト、ええっと、なんでしたっけ。
 馴染みのないお名前ですわ」
「わたくし、官憲の」
「いえ、名前なんて結構です。
人違いのようですから、ごめんなさい」
「お待ちください。
 出なければ、あなたに良くない事が起こるかもしれません」
「それは脅迫かしら。
 としても、あなたは何か心得違いをされていらっしゃるようですわ。
 あたし、急いでますから」
 と、振り切った男は、チェンチ一族の捜査をしていた男で、一度、遠目で見た覚えはあるが、確かに話をしたのは、それが初めて。
 あたしの事など知りようのない男だった。

 心当たりなんて・・・

 そういえば。
 チェンチ一族の処刑の前日に聞いたんだった。
 ベアトリーチェは処刑されると、胴体が頭を回収しに来るとかどうとかいう民衆たちが騒ぎ立てた噂があった。
 聞いて、ちょっとした悪戯心を擽られたあたしは、服に型を入れて、かがむと、ちょうど首がなくなって見えるような細工を作った。
 あたかも首のない死体が頭を持っているような細工。
 それで皆の目に触れるよう橋を渡ったりとデモンストレーションをして魅せた。
 それも案の定、民衆の、そしてクレメンス八世の不安を煽っていることも知っている。
 おかげでクレメンス八世は引きこもり、誰にも会わなくなっていた。
 唯一、傀儡となった身の主人であるあたし以外には。
 
そうね、こうして生きて死んでいくのね。
あたしには幸福も不幸でしかなかったわ。
毎日が同じことの繰り返し、静かに、だけど金銭には苦しまなくなった。
 男にも不自由はないのだろうけど、今ではもう興味がなくなってしまった。
 そうね、こうして死んでいくのね。
 喜怒哀楽も無くなって、苦痛だった怒りも悲しみも風化してしまったのかしら。
 穏やかな、ただただ穏やかなこの平穏があたしにとって、何よりの宝物。
 あたしには幸福も不幸でしかなかったわ。
 すべてが重荷だったのよ。
 そして漸く合点がいったわ。

そうね、こうして・・・
 


いいなと思ったら応援しよう!