“引き受け”と“人生の伏線回収”について
あの時、あの選択は合っていたのか?
あの時、あぁしていなければこんな事になっていなかったのに・・・・
人生は、割と後悔する事が多い、
後悔しないように生きよう、とも言われていると思う。
やらない後悔より、やる後悔
後悔先にたたず、、、云々。。
そんな時、どこかのCMで見た言葉・・・・
「人生で、あと何回後悔できるだろう」
この言葉を噛み締めるほどに、
死生観、メメントモリ、人生の一回性について
考えさせられる。
後悔というものがどうやって生まれるのか?といえば
選択を誤ったと思った時、
その選択によって望まない現状に陥った時、
大体こんなものではないかな、と思う。
ただ、もう少し長い時間軸でみると
その見え方も変わってくる、そんな経験はないか。
例えば、私は陸上部に入部した。
少しばかり足が早かったのと、
仲のいい友達に誘われたから。
ただただ走り込みをしている時は、
入部しなければ良かったと後悔した時もあった。
放課後に帰宅部の友達が、気の置けない仲間と教室や
河川敷でだべる青春にも憧れていた。
その時は、後悔していたかもしれない。
しかし、高校を卒業し、陸上から遠ざかった時
あぁ、部活やっていて良かったな、と思い出すことが多い。
つまり、
過去の選択によってでき上がった“今”という状況を、
“引き受け”た時、自分の過去の選択が正解だったんだ、とわかる。
と言うより、“正解になる(している)”。
そう言う時、
「あぁ、あの時の辛さは、
今の状況くらいじゃあ苦しく感じないために
自分にとって必要な経験だったん」とハタと気づくことがある。
まるで漫画の伏線を回収するかの如く。
そう思い始めてから、
割と人生で起こる悪いこと、もがき苦しむ状況、
胸のモヤモヤ、全ての悪いシチュエーションは、
その後の何かの伏線になっているのではないか、と思うようにしている。
そしてこれは逆も然り。
あまりに上手く行っているのは、
この後、悪いシチュエーションになる布石では・・・?と敏感になる。
しかしそれもまた、
全て人生の大きな大きな伏線を回収するための
重要なイベントに過ぎないのかもしれない。
と、まぁ、、、大体思いつくままに書いていると
800〜1000文字くらいなんだな、と気づいた。
文字を意識して書いていたのは卒論くらいだったので
このくらいが心地の良い掃き出し具合だと気づけたのもnoteのおかげか。
そして、これもまた何かの伏線なのかもしれない。
そんなわけないか・・・ もう7時だ。