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なぜ「クズな男が好きか」と問われたら

 クズな男が好きである。17の歳から好きである。ずっとひとりの男が好きだったのではなく、つねに、女ったらしのだめな男が好きである。

彼らは自分の言葉に責任を持たない。いかに自分の発言や行動が、鋭利な刃物のごとく女性を傷つけるかを、気にしない。
そして、自分が女ったらしであることに、なんらかの誇りを持っている。誰にも評されることのない、自分だけのプライドのようなもの。わたしはそれを揶揄して「プレイボーイしぐさ」と呼んであざ笑っている。

そのくせ彼らはマメである。
たいていの人は、ラインや通話などをこまめに返し、なにげない雑談を延々と交わすことを億劫がる。よほど仲のいい友人や恋人同士で、なおかつマメな連絡を好む人たちでなければ、そんなにぽんぽんと、卓球のラリーのような連絡のやり取りはしないものらしい。(わたしはクズな男とばかりやりとりして20代を過ごしてきたからそれに気づくのが遅かった)。
しかしクズは、人に構うのがうまい。手慣れている。「いけそう」と思った相手には、呼吸をするようにコミュニケーションができる。酸素を吸って吐くのと同じ速度でラインを返してくれる。

あと面白い共通点なのだが、クズな男性はあまりLINEでスタンプや句読点を使わない。じっくり考えた長文なんてまず送らない。淡々と短文を重ねて送ってくる。

おつかれ
今日ひま?
飲みに行ける?
新宿は?
おっけー
19時かな

みたいな。
「彼らは句読点もつけず、なにをそんなに急いでるんだろうね」とある日友人が言っていたので、「早く射精したくて急いでるんじゃない?」と言ったらウケた。


 そんな彼らのことを思い返したのは、某有名人が不倫と離婚ののちに再婚、というニュースを見たからで、わたしは特別その人を好きでも嫌いでもないし、応援しているのでもアンチでもないのだけれど、そのニュースに対する世間の反応にすこし考えるところがあったからだ。
(※なのでこのエッセイは、ニュースに関する分析でも批判でもなく、ただの私の回想です。)

「なんでこの人と結婚したいと思えるのかわからない。過去に不倫しているのに。自分も同じ目にあうかもしれないのに」

という意見が、ニュースのコメントや、SNSでも多く見られた。
その疑問はもっともだと思う。まっとうだと思う。
わたしも、不倫はつねづね悪だと思っている。過去に既婚者に不倫を持ち掛けられた経験があるからだ。そのときは信頼関係を踏みにじられたようで傷ついたし、反射的に、この人は偽善者だ、きもい、と思った。

一方で、ほんの少しだけ「こういう女性の気持ちも、まぁわかるな・・・」と、思ってしまう自分がいる。
なぜ共感してしまうか?知りたいでしょう。まっとうなみなさんには想像もつかない領域のお話でしょう。想像がつかないのは当たり前なんです。これはもっと、感覚的な話だから。

女ったらしは、嗅覚に優れているんです。
具体的に、そして品のないかたちで言うと、「あ、この女、いけそう」ということが嗅ぎ分けられる。
誘ったら応じてくれそう。自分のことを好きそう。抱けそう。

彼らにはそれが「わかる」。なぜわかるか。それは才能なんです。ある程度生まれつきの才能が必要だと思う。あるいは育った環境の中で身についた、自分はふんだんに愛される人間だという、傾いた傲慢さも。
彼らは、自分のことを好きになってくれそうな女性をひとめで見分けられる。ふっと対面したとき、その匂いでわかる。動物的だ。混沌とした森林の中でも、動物が遠くに生えた果実の香りを瞬時に察知するがごとく、彼らには見つけられる。


そしてやっかいなのは、わたしのようなクズな男が好きな女性は、2つの性質を備えている。

・1つめは、こっちを見てくれない男が好き、ということ。

・2つめは、そういう男に「見つけられる」ことに、反射的な喜びを覚えてしまう、ということ。


 こっちを見てくれない男が好きだ。わたしは10代のころから、つねづね、みずぼらしい祈りの文言のようなものを繰り返している。
「わたしは、わたしのことが好きじゃない人が好きだ」と。

相手に追いかけられると、逃げたくなる。いつもそう。
女ったらしとは違うタイプの、真面目な人に好かれることも時々ある。
しかし、自分のことを熱心に好きになってくれた人の、真剣さや熱量に、わたしはいつも耐えられない。この熱に応じなければならないのか・・・と、プレッシャーに感じてしまう。
あるいは、彼らのせいにするならば、彼らは時々コミュニケーションの距離感をまちがえる。一気に、ぐん、と詰めすぎてしまう。(ように思う)
まだこちらが相手を好きになっていないし、心を開いていないのに、強い意志で境界線を踏み越えて、ずんずんとこちらに近づき、扉を開けようとする。その熱意にわたしはいつも負けてしまう。逃げてしまう。ブロックして強制終了。

反対に、クズな人は、境界線をひらりと飛び越えてくる。
その距離感がうまい。彼らは必要以上の熱意を込めない。

距離の詰め方がうまいが、ずっとこっちを見ているわけではない。彼らには何かしら、わたしという人間に向き合うよりも、もっと優先していることがある。
それは本命の女性だったり、ゲーム感覚を楽しむことだったり。性的な息抜きだったり。女と遊んでいる、という何の役にも立たないステータスだったり。あるいはそんな理由すら存在しないただの暇つぶしだったり。

そういう人と付き合うと、あるいは付き合わなくても一緒にいると、傷つくのはわかっている。
彼らはわたしに心があることに気づいていない。わたしに限らず、周りの人すべてにそうなのかもしれない。あるいは、自分が特別に好きになった相手にだけ、心があると思うのかもしれない。どれでもいい。どのみちわたしは彼らに気持ちを尊重されることはない。

わたしは消費される。彼らの気まぐれなふるまいに。女性を一人でも多く抱くことを、スタンプラリーのような達成感を得られるゲームだと考えている奴らに。酒の勢いでぼろりとこぼされ、そのままぶつけられた悪意に。


いっぽうで、そういう「本命ではないんだな」という認識は、わたしをどこか安心させる。彼らの気まぐれな視線が、わたしの顔に一時的に止まるとうれしい。一時的に、というところが大事である。わたしもきっと、彼らに好かれるかどうかのゲームを楽しんでいるのだ。
視線がつっと向けられると、わたしの中の承認欲求が暴れる。普段こっちを見てくれなさそうな人が、かりそめでもこちらを見て楽しそうにしている。わたしの隣でお酒を飲んで機嫌よくしゃべっている。なんだかうれしい。

そうやって気づけばラブホテルの薄暗い天井をにらんでいる。深夜2時の歌舞伎町、あるいは池袋か五反田。男の人はたいていラブホテルでいびきをかいて寝る。お酒をたくさん飲むせいだ。終電はとうぜん出ており、無計画に家を出てきたのでスマホの充電も切れかけている。明日の帰り道を考えるとスマホで時間をつぶすこともできない。
わたしはラブホテルのベッドで熟睡できたことがない。
ひとり天井をにらみながら、耳障りないびきを耳にしながら考える。数時間前までの高揚感のゆくえを。なんでこの人に誘われてうれしいと思ったんだっけ。さっき一緒にバスタブに浸かったときは、少しワクワクしていなかったっけ?
ため息も出ない。自業自得だ。自分への苛立ちと、早く家に帰りたい気持ちだけが募る。

それでも、クズな男をかわるがわる好きになってきた。季節が巡るのと同じように、春夏秋冬のクズたちを。
彼らはわたしに一直線ではないから、気楽でよかった。まっすぐな視線を注がれることは、たびたびわたしの人間性を理想化されすぎてしまうし。誠実な人に好かれると叫びたくなる。
「ちがうんです!!!あなたが思うような人じゃない、わたしもクズなんです!!!!」と。叫びたい。横断幕を掲げたい。

こうやって、自分の価値を低めているのかもしれない。もっとわかりやすくありふれた言い方をするなら、自己肯定感が低いのかも。

でも、今となっては、彼らに消費されていた、と言ったほうが正しいかもしれない。30代になって、わたしは引っ越して環境も変わって、男性とむやみやたらに遊ばなくなったから。わたしは地元に引っ越してきたことを、「承認欲求のサナトリウム」と一人で呼んでいる。
私の中の承認欲求は、かぎりなくちいさくちいさくなった。
いまは、BB弾くらいの大きさになっている。


クズな男はわたしの鏡だ。誰かを軽んじるような人と付き合う時間だけ、わたしは自分を軽んじた。あるいは自分のことを好いてくれた、ほかの誰かを軽んじた。
そういう恋愛ばかりしていると、いざ他の誰かを好きになって、大切にしたいと思ったときに、そのやり方がわからなくなるのよ。ほんとうにそうなのよ。これ最近友達とLINEしてて気づいたんだって。
30歳を過ぎても、わたしは好きな人と向き合って信頼関係を築いていくやり方がわからない。20代の昼間は仕事の休憩時間にクズな人とLINEをし、夜はラブホテルの天井をにらんでいたから。


女ったらしとわかっていても相手に突き進んでいく、かつての私も、いまどこかで――東京で仙台で大阪で、あるいは山の中で――人を好きになろうとしている誰かも、おなじ。
勇敢というより無謀で、自分をコントロールできていない。相手に好かれることにだけ、自分の価値を見出そうとしてしまう。相手の視線がきまぐれに自分に向けられた瞬間の高揚感をエネルギーに突っ走っている。

そんな彼女たちを、わたしは応援も批判もしない。説教も垂れない。好きなものは好きなのだから仕方ない。わかるよ。でも、ちょっと見守りたくなる。その速度でどこまで走れるか?ということ。
もっと20代の若い時間を、有益に過ごすやり方があったんじゃないか??ってたまに思う。

そういう理性的な判断ができるようになった大人のいまでも、頭の片隅では(でも恋に落ちるというのは、少なからず正気を失うことなんだよな~)と、思っている。しかし、相手を選ぶことは大事でもある。


ラブホテルで終電を逃して、天井をにらみながら夜を過ごしてた私へ。
今すぐベッドを降りて、タクシー代を出してひとりで家に帰ったほうがいい。
その高いタクシー代で、あとから少し、冷静に考えてみるといいよ。自分は何がしたくて、これからどうなりたくて、そのためにいま何ができるのかを。