
無神論者の神頼み
とあるきっかけがあって、昨秋から神社にお参りすることが多くなった。私は無宗教で、無神論者なので、まさに「苦しいときの神頼み」だ。自分の身勝手さに我ながら笑ってしまうが、こんな私でも手を合わせて祈りたくなることはあるのだ。
でも、ふと我に返って、誰に?誰に向かって願いごとをしているのか?と自問してしまうことがある。神も仏も信じてなんていないのに、どうして神社に行くのか?と。我ながら不思議なのである。
親しい人にそんな話をすると、やっぱり神様の存在を信じているんじゃないの?と笑うのだが、自分ではそんな感覚はまったくない。神も仏もなく、人間は死んだら「無」に帰するとしか思えないのだ。
それこそ自己矛盾もいいところなのだが、よくよく考えてみると、神前に手を合わせ、神様に向かって願いごとを呟いているようでいて、結局のところは自分自身に話しかけているだけのような気もする。「私は〇〇を願っている」「私は△△になるように祈っている」と確認しているだけなのではないかと。言語化すればそれは現実になるとばかりに。
でも、それなら別に神社になんて行かなくてもいいはずだ。家でも、カフェでも、街中でも、いや、家の中だっていい。いつだって祈れる。
なのだけれど、やはり「祈り」には、たしかな場所が必要である。非日常であって、厳かで、広がりがあって、自分の存在を空しくできるような、(可能なら)静かな場所が。だから、神社じゃなくても、寺でも教会でも、そのような条件を満たす場所ならいいのだ。要するに、私は祈る場所に「雰囲気」を求めているということだ。敬虔な宗教者からは「ファッションで神に祈るな」と叱られそうだが、こうして祈る(あるいは祈りの真似事をする、ポーズをとる)だけでも、自分の心の中が整理できたり、祈りを向ける対象への思いを強めたりもできるので、私自身にとっては意味のある行為なのだ。
2025年を迎えた今日も、いつも行く近所の神社に初詣に行った。そこでも私はやはり「〇〇になったら良いと考えている」「△△であることを願っている」ということを確認させてもらった。
この神社の境内では、まっすぐに伸びたヒノキと、立派なイチョウの木が二本並んでいる。地元の名木に指定されるだけあって、霊験あらたかな姿をしているけれど、不遜ながら、昨秋来、私の「友だち」だと勝手に思っている。お参りを終えて鳥居をくぐるとき、この「友だちの木」たちに(心の中で)手を振って、どこか満たされた気分で神社を後にした。
そんないい加減な無神論者の私の初聴きは、タチアナ・ニコラーエワが弾くJ.S.バッハのコラール「イエスよ、わたしは汝の名を呼ぶ」BWV639だ。元はオルガン用に書かれたコラールを、ブゾーニがピアノに編曲したバージョンで、このニコラーエワの演奏は、先年亡くなった坂本龍一が”Funeral”と題したプレイリストに入れていたことでも広く知られる。
都合よく神社に神頼みをしている人間が、キリスト教(それもプロテスタント)のコラールなぞを選んで聴いているという図式も無節操そのもので笑ってしまうが、祈りたいときにこれほど相応しい音楽、相応しい演奏があろうかと思う。
この演奏は、かなりテンポが遅くて通常より1分ほど長くかかり、古楽アプローチに慣れた耳には時代がかったスタイルにも感じられるが、そんなことはどうでもいい。何と深く、何と厳かで、何と静かな音楽だろうかと、聴くたびに感じ入り、ため息が出てしまう。ニコラーエワの演奏から聴こえてくる音の振る舞いは、もはや宗教的儀式で司祭がおこなう祈りの仕草のようだ。音もたてずに歩いて祭壇(神前)へと向かう足音や、神の前で手を合わせて祈りをささげるときの衣擦れの音が、質素な音の向こう側から聴こえてくるかのようにさえ思えるのだ。坂本龍一が自分の葬式でかけてほしい音楽の一つとして、これを挙げた理由は私は知らないけれど、気持ちとしては分かる気がする。まさに「メメント・モリ」の音楽だと思うのだが、祈りという行為は結局のところはそこへ行き着くのかもしれないなどとぼんやり考えている。
私の甚だ自分勝手な祈りは、届くのか、届いたのかは分からない。叶った願いごともあれば、何にもならなかったこともある。それでもいいから、ただ自分のこんがらがったものを整理しながら、自分が何を望んでいるかを確かめるために、今年もまた神頼みは続けていくつもりである。無宗教、無神論者のままで。