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【ディスク 感想】『夢』トスティ/歌曲集 ~ ハビエル・カマレナ(T)/アンヘル・ロドリゲス(P) (Pentatone)

 もうかなり昔のことだが、声楽家で音楽評論家の故・畑中良輔氏が、レコード芸術の月評で「トスティの歌曲は『街の歌』と見なされ、イタリアの音楽学校では教えない」と書いていたのを覚えている。それが本当なのかどうかは知らないけれど、何となく分かるような気もする。

 歌うこと自体よりも、教えることの方が難しいだろうからだ。声楽的に美しく、立派に歌えるように指導することは可能でも、聴き手の心を射抜くような歌を歌えるようにするのは至難の技に違いない。

 イタリアの歌曲作曲家フランチェスコ・パオロ・トスティ(1846-1916)が残した膨大な歌曲は、どれも人懐っこくて、「わかりやすい」。「オー・ソレ・ミオ」や「帰れソレントへ」などと並べてしまえば、カンツォーネやナポリ民謡だと勘違いされるかもしれないほどだ。オペラ歌手のリサイタルの中心でとり上げられることもあるが、「マレキアーレ」のようにアンコールで場を盛り上げるために歌われることの方が多く、とにかく演奏効果が高い。だから、古今東西の名歌手たちはこぞってトスティを歌う。けれど、私たちが聴いて心を奪われるトスティの歌唱は、基本は正統的で端正な歌でありながらも、歌い手それぞれのサムシング・スペシャルなものがキラキラと輝いたものばかりである。

 その「サムシング・スペシャル」なものとは、言葉にするのは難しいが、その歌い手の唯一無二の人間性に根差したもの、としか言いようがない気がする。歌い手の人生観、生きる姿勢のようなもの。それもたちまち聴き手の耳と心を釘付けにしてしまうほどに魅力的なもの(言うまでもないことだが、それは歌い手本人のプライベートな生活とは関係ない。あくまで音楽の上での人格である)。そうした諸々が、美しい声で歌われた歌からこぼれ落ちてくる、そんな素晴らしい歌唱が現に存在するのである。ジーリ、ディ・ステファノ、パヴァロッティ、A・クラウス、カレーラス、ラ・スコーラ、ブルゾン、松本美和子といった綺羅星のような「トスティ歌い」たちの名唱である。

 そんなトスティの歌をどう歌うかは、誰かに教えられて身につくものではないだろう。歌手として歌を磨きつつも、それ以上に、生身の人間として実感のある生を生きなければ、心の琴線に触れるトスティを歌うことなどできないのだろう。イタリアの音楽教師はそのことを痛いほど分かっていて、学校の教室では教えずに「自分で勉強しろ」と言っているんじゃないだろうか。もちろん、「芸術的ではない」とか何とかそれらしい理屈もくっついてはいるだろうけれど。聴き手側としても、誰かに推し着せられた、ただ「正しい」だけのトスティなんか聴くのは、時間の無駄というものである。

 そのトスティの歌曲は、なぜかここ何年かは目ぼしいCDが出ていなかった(Brilliantからまとまった全集が出たが演奏は今一つ)が、今年に入ってPentatoneレーベルからハビエル・カマレナのアルバムがリリースされた。これが素晴らしい。選曲も演奏も魅力的なのだ。

 メキシコ出身のカマレナの声には、純イタリア産の人のそれとは違って仄かな翳りがあり、レガートやカンタービレにも独特の湿り気がある。だが、軽やかで伸びのある、そして、輝きと力に満ちた声には惹きつけられずにいられない。変な音程のずり上げをしたりせず、まっすぐに高音を当てにいく歌いくちの清潔さもいい。そして何より、エモーショナルな表現をたっぷりと盛り込みつつ、拍節感をきっちりと保って音楽をきりりと引き締める、そのバランス感覚こそ、トスティの人生の悲哀を盛り込んだ味わい深い音楽には相応しい。

 アルバムのプログラム・ビルディングも素敵だ。イタリア語の歌詞を持つ人気曲(マレキアーレ、四月、私は死にたい、夢、暁は光から、かわいい口もと)だけではなく、フランス語や英語の比較的マイナーな曲をとりまぜながら、ライヴさながら徐々にヴォルテージを上げていき、最後の「アブルッツォのギター曲」で声も表現も全開にするあたりは胸のすくような鮮やかさで、見事としか言いようがない。おなじみの「マレキアーレ」はピアノ伴奏の編曲と一緒になって大胆な遊びを仕掛ける場面もあり、実演ではさぞかしと思わずにはいられない興奮を煽る。このアルバム全体をライヴでも聴きたいものである。

 ただ、気になったのは、細部まで心遣いの行き届いた歌であるのは良いのだが、時折、ちょっと考えすぎ、フレーズをいじりすぎ、と思う箇所があったところ。例えば、「四月」。ロドリゲスのピアノ伴奏も含め、和声の切り替わりごとにわずかな間合いを空け、歌詞に伴って細かな表情づけを施している。これは明らかにやりすぎで、頬をなでる爽やかな春風のようなフレーズ感が台無しになってしまっている。せっかく恋の季節を謳歌しようとしているところ、細かく算盤勘定をしている策士の歌のようで、やや興醒めだ。

 しかし、それは小さな瑕で、そうした神経の行き届いた歌が得も言われぬ美しさを生んでいる場面に事欠かない。トスティの歌曲の魅力は熱狂を誘うような直情性にあるのではなく、むしろ、移ろっていく和声の繊細さと、ニュアンスの豊かさにこそある。特に、ピアノ伴奏の響きの中には、心の襞に染み入ってくるような優しくも美しいハーモニーが満ちていて、歌手はうまくそれに乗って、メロディと歌詞に込められた景色や彩りを歌い分けなくてはならない。そうした点をカマレナは実にうまくこなしていて、トスティの歌曲の味わいを存分に楽しませてくれる。

 中でもアルバム・タイトルになっている「夢」は白眉だと思う。フレーズごとにテンポを細かく揺り動かし、甘美な愛の夢が儚く消えていくさまをエモーショナルに歌いつつ、端正な歌いくちは崩さず、曲のかたちを保ち続けているあたりの表現の匙加減が絶妙だ。

 そして、さっき書いた「サムシング・スペシャル」なものが、このカマレナの歌には、ある。確かに往年の大歌手に比べてしまうとやや小粒なのは否めない。両手を大きく広げ、人生を、恋を熱く歌い上げるようなオープンな人生肯定は、そこにはない。だが、傷つきやすくて繊細で、それゆえに何かに憧れずにいられない青春の息吹があり、それを慰撫するような優しい手つきがある。いろいろな人生経験を積まなければ表現できないような表現の機微があちこちにありつつ、それをさらりとダンディな物腰で表現できてしまう洗練がある。そこに、ほかには得難い「カマレナのトスティ」のチャームがある、と私は思う。

 久しぶりにトスティの歌曲の美しさを堪能できるディスクの登場を心から嬉しく思う。アンヘル・ロドリゲスの伴奏も、カマレナと呼吸の合った、ツボを得た演奏ぶりで非常に好感度が高い。私としては、ずっと愛聴しているホセ・カレーラス盤(Philips)や、パヴァロッティ、ディ・ステファノの歌と並べて(カマレナもこれらの歌手の歌を愛聴しているらしい)、常に座右に置いておきたい極私的名盤である。

 そう言えば、カマレナは今年の6月の英国ロイヤル・オペラの来日公演に帯同し、ヴェルディの「リゴレット」でマントヴァ公爵を歌ったそうだ。どんな歌を聴かせたのか、評判がどうだったのかはまったく知らないのだけれど、このトスティを聴く限り、さぞかし良かっただろうと思う。是非、実演を聴いてみたい歌手の一人だ。できることなら、オール・トスティの歌曲リサイタルが聴きたいが、難しいだろうか。


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