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『アンソロ・ビジョン 人類学的思考で視るビジネスと世界』好奇心の使い方で、大きなリスクを未然に防ぐ

ノンフィクション好き、とりわけ未開の地に住む部族の物語などが好きな人にとっては、実に役立つ一冊と言えるだろう。人類学的な思考法を獲得することが、ビジネスにおいて有効な知的ツールになりうるというのだ。

著者のジリアン・テットは、かつてフィナンシャル・タイムズの編集長も務めた人物。学生時代に文化人類学を専攻し、タジク人の婚姻儀礼を観察することで磨いたまなざしを、どのようにビジネスの世界へ転用したのか? そしてそれが多くのビジネスマンにとって重要なのはなぜなのか? 自身のキャリアをベースにした説得力ある筆致で、これらの疑問に答えてくれる。 

人類学のマインドセットとして重要なのは「未知なるものを、身近なものにする」という姿勢である。これを実現するためには、見知らぬ部族の中に深く入り込み、他者の考えに耳を傾けなければならない。だがこれを徹底して繰り返すことで他者への共感が生まれるだけでなく、いつしか自らの姿もはっきり見えてくるようになる。

ここまで来れば、2つ目のステップ「身近なものを、未知なるものにする」の世界が待っている。自分自身、あるいは自分自身をとりまく世界をじっくりと、客観的に振り返るのは誰にとっても容易なことではなく、とりわけエリートには難しい。しかしこの観点こそが、大きなリスクを未然に防ぐことへつながっていくのだ。

たとえば本書で紹介されているゼネラル・モーターズの企業内対立の事例。技術者同士の荒れがちな会議に人類学者が同席し、参与観察という手法で原因を見出した事例は興味深い。会議におけるボトルネックは、決して「ドイツ人VSアメリカ人」などという人種の対立軸によって生まれたものではなかった。技術以前の「会議とは何か」という前提が、それぞれの「部族」によって異なることが原因であったという。

あるグループにとって、会議における目的は具体的判断を下すことであった。だが別のグループにとっての会議は、アイディアを共有する場であった。さらに別のグループにしてみると、合意の形成こそが会議の目的であった。同じアメリカ人同士の技術者間においても、これだけ前提条件が異なれば、上手くいく訳もないのだ。

このように人類学の対象を企業に適用するケースは年々増えてきており、本書ではインテル、ネスレ、P&Gといった世界的企業の窮地を人類学的思考がどのように救い出したかという事例が多々紹介されている。

ならばなぜ、この変化の激しい現代社会において人類学的思考が重要になってくるのか? これを著者は、アウトサイダーとインサイダーの視線を交錯することによって、「社会的沈黙」の存在に気付くことが出来るからだという。

トランプ大統領誕生の背景には、トランプの言葉を額面通りに受け止めるものと、トランプの存在を真剣に受け止めるものとの分断があった。経済学においては、GDPという指標にタダの取引が含まれなかったことにより、経済学者にとっての盲点が生まれた。そして昨今サステナビリティ運動が盛り上がる背景には、VUCA時代におけるリスク管理という側面があったのだ。

インサイダーにとって当たり前の存在であり、アウトサイダーにとって取るに足らないものと片付けられる事象の中に、優秀な集団であればこそ見落としがちな大きな死角が潜む。

困難な時代には、視野を広げることの必要性を忘れがちだが、困難そのものだけでなく、視野狭窄に陥ることによって、さらに深刻な危機を引き起こす可能性は高いことだろう。

好奇心を知的ツールに変えるためのトレーニングは、わざわざ地球の裏側まで行く必要はない。興味の対象を自分自身に向けるだけで良いということだ。モノの見方によっては、我々の足元だってワンダーランドになるし、それが大きな禍いを未然に防ぐことにもつながっていくことを示してくれる一冊だ。

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