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『カースト』カーストのプログラムは、我々全員の無意識にインストールされている

カーストといえば、多くの方がインドを想起するかもしれないが、本書はアメリカの話である。カーストこそがアメリカ社会のヒエラルキー構造であり、社会秩序を維持するための手引きであり、対立の基盤でもあると著者は説く。

著者はアフリカ系アメリカ人の女性。ヒエラルキーに抗うことにより獲得した自由な視点で、自由の国アメリカの水面下に広がる、不自由や差別の構造を鬼気迫る筆致で描き出した。

まず、アメリカ社会における人種のヒエラルキー構造を浮かび上がらせるため、2つの補助線が引かれる。それがナチスドイツにおけるカースト制度、そしてインドのカースト制度であった。

本書で印象的なエピソードが紹介されている。かのマーティン・ルーサー・キング牧師は、ある日インドの高校を訪れたとき、校長にこのように紹介され唖然とする。「みなさん、アメリカ合衆国から来た、みなさんと同じ不可触民の方を紹介しましょう」

しかし、その後ほどなくしてキングは「自由の地」アメリカがインドのものによく似たカースト制度を採用しており、自身も生まれた時からその制度のもとで生きてきたことに気付くのだ。

次に紹介されるのは、ナチスドイツがユダヤ人を組織的に迫害するための法律を定めるときに参考にしたのが、アメリカの移民制限法であったという衝撃の事実である。さらにナチスの研究者をして「アメリカの法律は行き過ぎている」と言わしめたという。

著者はアメリカ、インド、ナチス・ドイツという3つのヒエラルキーを調べるなかで、それぞれの類似点や相違点を系統立ててまとめ、これらに共通する重要な特徴を8つ見つけ出す。それが神の意志、遺伝性、族内婚、純粋と汚染、職業階級、非人間化と烙印、恐怖と残虐さ、生来の優劣という要素であった。

出自や努力では変えられない要素で分類し、人為的に基づいて作られた基準にもかかわらず神の意志であると正当化し、下等と見なされる人に烙印を押すことで人間性を奪い、しかもそれが世代を通じて受け継がれていく。

つまり自由の国アメリカ社会というのは、不自由なものを特定の人種へ永続的にアウトソースすることで成り立ち、しかもアウトソース先を自分たちの社会とは別ものと位置づけることによって、自分たちの社会をきらびやかに見せてきたーーそういった構図なのだ。

考えただけでも恐ろしいが、不思議なのはなぜこのメカニズムが今日まで長く続き、法律が廃止されて以降も根強く残り続けてきたのか? ということだ。

それは人間の意識のどこかに、「最下層がいないと困る」という思いが潜んでいるからである。米国でもインドでも、第二次世界大戦下のドイツでも、最下層のカースト集団こそが、社会を見舞う災難の責任を一手に引き受けるスケープゴートの役割を果たし、社会の構造上の問題から人の注意をそらす役割を果たしてきた。

そしてどのカーストに所属していても、多くの人は別のカーストより上にいることに誇りと安心を見出してしまうし、その階層の中での最下位にはなりたくないという思いから、ヒエラルキー内でも仲間を階層化し始めてしまう。

このようにカーストというものは、支配階層と隷属階層の間だけの話ではなく、あらゆる階層に所属する普通の人の心の中に形成され、維持し続けられているのだ。さらにタチの悪いのが、このプログラムが我々の無意識の領域にインストールされてしまっていることだろう。

著者は、インド人とともに過ごす時間が長くなるにつれ、集団内における人の物腰や態度を通じて、誰が支配カーストで誰が隷属カーストであるかを的確に見分けることが出来るようになったそうだ。多くの人が自分に割り当てられた規範に素直に従っているかぎり、格差が埋まることなどありえない。

格差について論じた本は数あれど、政治の問題でもなく、経済政策の問題でもなく、我々が無意識に行っている集団の序列化、そして序列に基づく行動規範に格差問題の本質があるという視点にはユニークネスを感じた。

社会の前提を捉え直すことには困難が伴うし、まして解決するためには長い年月がかかるはずだ。そこにはアウトサイダーの視点からの気付きが必要になるし、当事者の視点としてのアクションも必要となる。

しかし、まずは黒人でも白人でもない人間が義憤を感じ、声を上げていくことこそが特効薬になるのだろう。そういった観点から考えれば、著者の目論見は見事に成功していると思うのだ。

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