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道草で腹を満たしてはならない

ある行程を赴くに際し、道草は燦然と輝く。
そしてこの世には輝く道草ばかりが「我こそは!」と群雄割拠し
道をネオンのように照らす。
しかしそれは太陽のーー誰もが享受できる恵みの光とは違い、道草の光はやはりネオンのように、夜にしか発光できず、影を影のまま照らす。

私は実際の道草ないし雑草に関する知識がほとんどない。
祖父が山菜を狩る場面をよく見ていたが、残念ながら当時の私は興味を持たなかったらしい。
なので山菜狩りはできない。
だがなんとなく、この草は食べれそうだ、とか。
この草は美味しくなさそうだ…と偲ばせることがある。
最近知ったが、彼岸花には毒があるらしい。

山菜狩りは山菜が主目的である。
ごくごく当然のことであるが、一方で主目的が別にあり山菜は眼中にない。
そのような場合には、山菜はその姿を変え道草となる。
無論私のような素人には、山菜の判別が付かないため、いついかなる時も道草である。
要するに道草とは、興味のないものか、あるいは不必要なものである。

「道草を食う」という言葉がある。
これは「手間取ってしまう」という意味の慣用句であるが、
「馬が道草を食って進まなくなる」ことが由来だとされている。
馬が進まなくて困るのは、行き先があるからだ。
つまりその馬には主人が存在する。
「道草を食う」という慣用句には登場人物が2人(頭)存在するのだ。

さて話が飛躍するが、我々を取り巻く環境は実に道草に溢れている。
もはや荒れ地や山林であろう。
インターネットの普及/発展がその荒廃に大きく拍車をかけたと言っても過言ではない。
少し目を見やれば、素人でもわかるような山菜もあれば、雑草、毒草、あるいは野菜さえもあるだろう。
もちろんこれは比喩の話だ。
一度インターネットに接続すれば、景気の良い音楽であったり、刺激的な映像であったり、
生活を豊かにするライフハック、誰かの与太話、気の滅入る話…ありとあらゆる情報が飛び込んでくる。
早い話、それら情報が道草である。

「情報疲れ」という言葉を耳にしたことがあるだろうか?
情報を取得しすぎることによって脳が処理しきれず疲労してしまう、といった現象のことだ。
情報を得て疲労してしまうのはまさしく、道草を食みすぎて動けなくなった馬に等しいではないか、と私は思う。

皮肉なことに、馬にとって道草はさほど悪くない馳走であろうが、人間にとっては栄養素に乏しく、また消化不良も起こすだろう。
我々は人なので、それ相応の飯にありつく必要がある。
道草は栄養になりづらいのだ。

要約すると、インターネットは道草のようなものだという話である。
道草で腹を満たしてしまうのは勿体ないのだ。


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ないあん
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