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違和感と生命力

あーあ、またズレてる、と思う。

本当に、微妙なことが、小刻みに、小さく重なっただけだった。
不安や焦燥や受け入れ難さが高波みたいに大きくなっている。
これを食らうとやばいということは見ればわかるが、ここまで来ていると、どこに逃げたらいいのか、次に何をしたらいいのか、体の動かし方から目のやり場まで分からなくなっている。

ひとに誘われるような形でコスプレをした。
遊んでいる時、楽しかった。
私は友だちとカラオケに行ったことがほとんどなかったし、友だちとお菓子を食べた記憶がなかったし、外食に行ったこともほとんどなかった。
ムーンライト伝説を聴きながらタンバリン叩いたりした。
ウィッグネットは水泳帽みたいに頭をぎゅっと締め付けるから頭はずっと痛かったけど、たのしかった。

帰りの電車で、なんだかとても虚しくなった。
本質的なところには触れずに、上辺の皮を整えて、上手くいったつもりで話していたみたいな、後味の悪い気持ちだった。
わたしは小さな画面で次々自分の顔を変えていくのを見ていても、矢継ぎ早に今風の言葉で重ねられる会話に入っているつもりになっても、この職種の人はやばいという仕事の話を聞いていても、相手を友だちと思っていいのか分からない中で間に挟まるように肩を組まれたときも、わたしは全然、大丈夫ではなかった。
自分のなかでぐるぐると回るなにかを、しらっと見ないふりをして、手触りのある違和感を顔に出さないように必死で、かっこいいとかヤバいとか結婚したいとかマジで存在してるとか言っていた。
なんだかぐにょぐにょしたものがお腹のまわりにへばりついていくみたいだった。
わたしは自分でこういうことを始めたのに、いつも違和感を感じている。
これがいい、これが好きだとあんまり思っていないのに笑顔でいようとして、そうして取り繕おうとしている何かに気づかれる。
ほんとうは毛穴を消したかった訳じゃなくて人とつながりたかった。


ズレる、というのは、生命力からズレる、に近い。
普通とか社会とか国とか人生設計とか、そういう、感じ。
ズレるのも押されるのも簡単に起こる。
望んでなくても直ぐに起こる。
戻り方はいつも分からない。
その都度やばいやばいって言いながら、探って転んで、たまたま戻れたりさらに落ちていったりする。

私にとって写真を撮ることは、その間だった。
従属に流されながら、流れるプールでヘリ掴んで立つような、力の湧くこと。
とにかくことばに起こすことが難しくて、色んなものを含んでいて、それでも、とりあえず「撮りたい」といえばなんとかしてくれた。
それだけは間違わないみたいに思えた。
色んな禍々しいもの全部持っててどうにもできなくても、とりあえずカメラを握って写真を撮ると、それがなんらかのつながりを生んで、本質のところに少し連れていってくれるように感じた。
とにかく私は色々下手で、逃げたくて、恐くて、思考がぐちゃぐちゃで、別の場所で動いてくれる筋肉みたいなものが必要だった。

なんでいつも眠る寸前みたいな気持ちでいられないんだろう。
生きてたらなんかしなきゃいけないみたいな、そういうのが強すぎる。
こわい昼寝がしたい。

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