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森へお帰り


子供が飼っているカブトムシ。

幼虫の時に取ってきて家で成虫になった彼らは

虫籠の中の世界しか知らない。

雌達は同じ虫籠に入れられた、ただ一匹の雄と交尾し卵を産んでいる。

選択肢はない。

私は遊郭の遣手婆にでもなった気持ちがして、罪悪感を覚える。

ナウシカを観て育ったからだろうか。

"ごめんね。許してなんて言えないよね。ひどすぎるよね"

と言いたくなる。

いつかベッドで

"動いちゃだめ!体液が出ちゃう!"

と言ってみたいとも思っているけれど、

それはまた別のお話。


虫は生存し子孫を残すという遺伝プログラムに特化して進化し、行動している為、感情はないという説がある。

だとしたら気に食わん男に狭い部屋の中で追いかけられ犯されても平気なのだろうか。
それとも同じ空間に閉じ込められているうちに一択の男を自然と好きになるのだろうか。

広い視点で見れば、
私達人間も、
決められたコミュニティの中に産み落とされ、
ある程度限られた候補の中から生殖パートナーを選ばざるえないので
同じなのかもしれない。

どのカブトムシも餌を食べ、交尾し、地中に潜っては出て餌を食べ、を毎日繰り返す。
カブトムシは飛んで逃げると聞いていたけれど
虫籠の蓋を開けておいても
逃げる素振りはない。
そこで産まれたから
世界はそこで終わっていると
認識しているのか。 
餌があり、生存でき、生殖できるから
外に出る理由がないのか。
感情がないのか。
感情はあるけれど、不満がないのか。
感情はあるけれど、どうにもできないのか。


子供の為に、と飼っているカブトムシだけれど、
ある程産卵したので、
森に帰したい、と思った。
「虫籠しか知らないのだから、
今更放すことの方が酷だ」、と元夫は言う。
そういう議論をする事も含めて、
子供の為にはなるのかもしれない。
動物愛護の観点から解剖などの授業がなくなりつつあり、昆虫と触れ合うのは子供が生命の尊さを学ぶ為の最後の砦だという意見もある。
けれど、
教育の為に生命を利用して良いのだろうかとも
私は考えてしまう。
餌をやっていれば、
教育の為になってくれた事を感謝すれば、
愛玩対象として大事にすれば許されるのか、と。
こんな事を考えるから
ペットを飼うことや動物園、水族館等に対しても、
いつも哀しい気持ちが拭えず心から楽しむことができなくて面倒臭いなと自分でも思う。

突き詰めると生命倫理レベルの議論になるので
終わりも正解もないし、
私はそんなに正しく生きられもしない。
いつものように、自分にとってちょうどよいバランスを見つけるだけなのも分かっている。

ただ、重ねてしまう。

生殖の為にオープンな関係という籠の中に留まっている私、
恋人にとっては愛玩動物でしかない、
そんな私と。


カブトムシの中に一匹だけ、
いつも籠の外に向かって藻掻いている雌がいる。

いつも、一匹だけ。

私はカブトムシの個体の判別ができないので
それが毎回同じ雌なのか、
それとも毎回違う雌なのかは
正確には分からない。

ただ、雌が一匹。
今日も、外へ外へと藻掻いている。




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