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エッセイ「御苑へ行こう」
京都御苑は、京都御所、大宮御所、仙洞御所、京都迎賓館を含む広大な敷地で、九つの門、五つの出入口がある国民公園として整備されている。樹木や芝生の緑が豊かで、四季折々の草花がかわいらしく咲き、神社や公家の邸宅跡、運動施設や児童公園、売店・休憩所などもあり、いつ訪れても気分が和らぐ。幅広い一直線の苑路には砂利が敷きつめられていて、日常とは別世界のような空間を醸し出している。
葵祭、時代祭の際は、優雅な行列が京都御所の建礼門を出発し、堺町御門を出て丸太町通に姿を見せる。そのとき小学校の授業は中断になり、行列の様子を低学年のみんなで丸太町通の地べたに三角座りをして見学した。私は色とりどりの衣装に目が行った。
建礼門の近くから東を向くと、大文字山が見える。「大」の字は真正面ではなく斜め向きだけれども、夏の風物詩の大文字の送り火は、毎年この広い御苑で見ていた。
小学生のときは、放課後や日曜日に、友達、家族と御苑へしょっちゅう出かけた。
家から御苑へ行くのに烏丸丸太町の交差点の信号を渡る。このあたりが御苑の南西角で、ここまで来ると生い茂る樹木が見えて、砂利をぐさぐさ踏む感覚と芝生のふかふかした感触が迫ってきて足早になる。
ユウちゃんの家は御苑を入ってすぐのところにあり、「御所に住んでるやなんて、いいなあ」とうらやましく思っていた。「あんたがたどこさ」と歌いながらまりつきをしたり、ままごとをしたり、松葉相撲をしたりして遊んだ。その家々は皇宮警察関係の人たちの住居だというのは、ユウちゃんが1年生で転校していった後に知った。
エミちゃんとは、よくバドミントンをした。少々の風には負けず、風下になったほうが力いっぱい打って、風上のほうからはやわらかく返す。小学5年生ぐらいになると、長く続けて打ち合えるようになった。ラリーの回数が増えていくにつれ、シャトルを落としてはいけないと緊張してくる。
風が強い日はバドミントンを諦めて、木や岩に登ったり、なわとびやゴムとびやかくれんぼをしたり、タンポポの茎を編んで首飾りを作ったり、四つ葉のクローバーを探したりと、遊ぶには全然困らなかった。
自転車に乗れるようになったのも御苑だった。父が自転車の後ろをつかんで走ってくれた。
草野球ができる広場もあり、父のチームの試合を見学した。隣の家のハルちゃんのお父さんもメンバーの一員だ。一つ10円のカップのアイスクリームを食べながら応援した後、ハルちゃんと遊ぶ。
時には、教えてほしいと言ってないのに、父にグローブを持たされキャッチボールをする羽目になる。ふりかぶって、左足を上げて、相手のグローブめがけてまっすぐ投げろと言う。高校でソフトボールの授業のとき、難なくキャッチボールができたのは、御苑での特訓のおかげだと思う。
さんざん遊んだ後の帰り道、堺町御門近くの九條邸跡に寄る。九條池にかかる高倉橋の向こうに、厳島神社の鳥居や九條邸の別邸「拾翠亭」が見える。拾翠とは草花を拾い集めるという意味で、貴族が春の野辺で草花を摘んだという風習にちなんで名づけられたらしい。落ち着いた佇まいに引き寄せられるのだった。
御苑の門をくぐり、丸太町通に出て、車が行き交う交差点を渡る頃、また一日が暮れていく。
平成30年の年明け早々、妹から「家族写真、撮らへんか」と提案があった。双子の50歳記念にプロのカメラマンに撮影を頼むという。
双子の妹たちが成人式を迎えたとき、母は、ほっとしたという気持ちを文章にし、新聞の読者投稿欄に送ったところ、載せてもらったことがある。初めて投稿した文章だった。
妹たちが生まれたときは未熟児で、一時は生命も危なかったと聞いた。一人目が誕生してから、もう一人いることがわかって、付き添っていたおばあちゃんは右往左往。危機を脱するまで、気が気でなかったことだろう。「お医者さん、看護婦さんに、ほんまにようしてもろうた」と、祖母から何度も聞かされた。
3月生まれのせいか、学校での集団生活に後れをとり、できないことがよくあったと言うし、双子ということで珍しがられ、生きづらいときもあったようだ。そんなことを乗り越えて、50年を生きてきた。
家族写真の撮影場所は、京都御苑。3月中旬、桃色、紅色、白色の梅が晴天に映え、顔を近づけるとほのかに香る。小さなウグイスが梅の木々の間を行き来している。
妹たちは事前に「なに着る? 写メ送って~」とLINEでやりとりして、似たような服でコーディネートしている。私にも「三つ子コーデにする?」と聞いてきたが、白いフレアスカートなど持ってないので、はきなれたグレーのスラックスと白のジャケットにした。父はかしこまって背広にネクタイ、母はセーターにスラックス、スカーフも巻いている。母は膝の調子が思わしくなく、この日も大丈夫かと心配したが、歩き通した。
まずは梅林で、一人ずつ、それから双子で、ダイヤモンド婚式間近の夫婦でと写真におさまる。若い男性のカメラマンが「みんなで手つないで、お父さんのほうを見て笑って」と呼びかける。「そんなんするの」と母と私が照れているところへ、妹が率先して手をとる。みんなでやればできるものだ。
砂利道や芝生の敷地を歩きながら、写真を撮ってほしいところで止まる。クスノキの大樹の前では「この木、よう登ったなあ」と懐かしく思い出し、登りたくなった。そこに妹が「いま登ったら捕まるで」と笑う。いい大人になっていたことをすっかり忘れていたので、その声がなかったら「ちょうどズボンはいてるし」と、クスノキに登っていたところだった。
そして帰り際に、九條池で撮ってもらう。「横に並んでこっちに歩いてきてくださーい」と高倉橋の向こう側からカメラマンさんが手招きしている。「ほな行こか」、父を真ん中にして胸を張って歩いた。
御苑での撮影を終えて、妹が予約しておいてくれた和食店までゆっくり歩いた。私たちが暮らしていた路地の近くに町家風のお店ができたらしい。そこで「いい天気でよかったなあ」と一息ついて、食事をいただき、それぞれの家路についた。
出来上がってきた写真はどれも、フォトフレームに入れて飾りたいようなきれいな仕上がりで、プロの方に頼んだ甲斐があったと思った。梅の花がぼかしてある写真は、4人の祖父母が見守ってくれているような雰囲気にも見える。
岩にもたれて撮った写真をよく見ると、岩には「貽範碑」と彫ってある。調べてみると、久邇宮朝彦親王が維新事業に貢献したことを称えて昭和6年に建立されたとある。小学生の頃、友達との待ち合わせ場所にしていた岩は記念碑だったのか。幅3メートル、奥行2メートル、高さ2メートルの岩には、ちょうど小学生のつまさきが掛かるくぼみがあった。どうぞ登ってくださいと言わんばかりだったので、待ち時間にてっぺんまで登って腰かけていた。そのときは「貽範碑」など全く目に入っていなかった。今度御苑へ行ったら、また新たな発見があるかもしれない。