「次の方、どうぞ」(3)だれか、いる
「あのね、ここに、だれか、いるの」
あどけない顔に似合わぬ深刻なまなざしで、少女は手のひらを耳の後ろにあてた。
「ここで、とんとん、ってするの・・・あ、ほら、今も」
幼い手がスズキの手をとって、自分の耳の後ろに導いた。スズキは大きくうなずきながら少女の目を見て笑ってみせた。指先でそっと顎の下から首にかけて、冷静に触診する。少しばかり熱を帯びている。ひどくはないが、腫れもあるか。それより、垢がひどい。
「時々は、とんとんとんとん、ってたくさんするよ。だから『はぁい』ってお返事すると、いなくなっちゃうの」
なるほど、それでうまく耳抜きができているということか。スズキは大きくうなずくと、
「ナナコちゃん、かな。ほかの場所にも誰かさんがいないか、ちょっと見せてもらうね」
スズキは聴診器をあてて、いかにも医者らしい恰好をした。黄色いワンピースの下は、あばらのういた胸。臍には垢がたまり、背中には大きなひっかき傷の跡がある。ひざ裏は黒ずみ、すねには大きなあざ。小学校には去年から行っていると話した少女は、計算の上では八歳になる年齢だが、とてもそうは思えない小柄な体・・・少し眠らせるか、とスズキは少女の名前を確かめる。問診票の氏名欄には大きく「ななこ」とだけ書かれていた。
「ナナコちゃんはなんていう苗字なのかなぁ?」
背後にいたマユミが世間話のようにさりげなく、少女に尋ねてくれた。途端に少女の表情が曇る。世界中の「困ったこと」を背負い込んで、これ以上困ることはないというほど。
「ママの名前のこと? んーと、ヤマダだったけど、前はイソノで、その前はマエダ・・・今は・・・わかんない」
マユミはそれを、なんでもないことのように「そうなんだぁ」と聞き流すと、ベッドの端に腰掛け、自分の膝をぽんぽん叩くと、少女に、だっこしよっか、とあたたかく微笑みかけた。おずおずとマユミの膝の上に座る少女に、スズキは声をかけ、耳に手を触れた。
「ここにだけ、誰かさんがいるみたいだね。お薬を出すよ。スズキナナコちゃん」
「・・・スズキじゃない、よ」と口が動きかけのまま、少女はかくん、と眠りに落ちた。ベッドに横たえ、マユミはそのまま膝枕をする。スズキは手早く点耳薬を落とした。一、二、三滴。「三つのお願い」だ―――生きろ、生きろ、生きろ。
マユミが、声のトーンを落として、誰にともなくつぶやく。
「はす向かいのコンビニで、朝、見かける子です。いつもこのワンピースで・・・朝ごはんを買いに来てるんでしょう。たぶんその隣に住んでるんじゃないかしら」
隣というのは、日頃からカラオケの大音量を路地に響かせている、全く防音設備のないスナックの、あのビルか。たしか二階も三階も、夜通しピンクのネオンを光らせているパブかなにかではなかったか。どこに「住まい」があるというのだろう。疑問に思い、そして納得する・・・なるほどね。マユミに伝える気力もなく、スズキは無言のままカルテに記入する。左耳;騒音性難聴による耳鳴り。栄養失調。明らかなネグレクト。
ーーー 目が覚めたら、もう何日も編んだままの髪をすいてあげよう。くっついたままのパンくずを落として、からまった後れ毛をときほぐしてあげよう。マユミの膝の上で静かな寝息をたてる少女の、髪をなでながらマユミは思う。部屋を移動しようと抱きかかえた少女の軽さに、マユミは泣きそうになった。ぐっとこらえ、スズキの声を背中で聞く。
「次の方、どうぞ」
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