「次の方、どうぞ」(5) 理屈壺
「はい、吐血はしておりません、しかしながらですね、わたくしの見立てでは十二指腸もしくは胃幽門部に潰瘍があるのではないかと思われるのです、と申しますのも、空腹時における、このみぞおちの痛みがですね、あの、先生、聞いておいででしょうか」
それらしい専門用語を織り交ぜながらの非常に流暢な男の説明を聞いているうちに、スズキは在学中どうやっても苦痛だった症例検討会を思い出し、そして条件反射のように、うとうとしかけたのだった。そこの君!聞いているのかね?
「あの、聞いておられますか」
いや、男の物腰はあの高飛車な教授とは違う。
「あ・・・あぁ失礼、もちろん聞いておりますとも、えぇとタカハシさん」
ゆったりと微笑んだつもりが、どうやってもひきつってしまう。まだまだだなぁ。
「ところがですね、先生、これまでかかりました病院という病院では苦しい思いをして胃カメラを飲まされるばっかりで、いっこうに病名を明かさないと申しますか、診断をつけようとはしないのですよ、いったいどういうことでしょう」
そりゃ病気じゃないからですよ、どこも悪くないんだもの、と思わず本音を吐きそうになって、スズキはぐっと飲み込んだ。なるほどね、ここで止めておかないと、この患者はまた別の病院に行くわけだ。今度は余裕をもってにっこり笑うと、
「ちょっと触診をしましょう、タカハシサトシさん、こちらへ」
白いベッドを指差して、スズキはタカハシの肩に手をおいた。とたんに気を失ったタカハシは、うまくベッドに倒れこむ。影のように現れたマユミが手際よくタカハシのシャツをまくり、腹を出した。右手を臍の上にあてていたスズキは、んーとつぶやきちょっと考える仕草で首をかしげ、「君、あのね、ちょっと、外の天気を見てきてくれないかな」
マユミは怪訝な顔で「何をおっしゃるんです、先生、診察中ですよ」と、ふくれた。
「いや、そうなんだけど、今は僕の手だけで足りるし、それに」
ぶほおぉっという爆音にスズキの次の言葉は遮られた。たちまち、夏のどぶ川の腐った匂いが部屋に満ちる。
「だっだだ、だんでずがごれ」
マスクの上から鼻をつまんだマユミが急いで窓を開け放つ。なんですか、これ、と言ったのだろう、たぶん。窓からは隣のトルコ料理屋のにんにく臭が熱風とともに入り込んできて、なんとも形容しがたい匂いがまざりあう。マユミは駆け足で受付の小部屋に走り込み、ばたんとドアを閉めた。その背中にスズキはつぶやく・・・おい、診察中だよ。
「いや、だからね、この匂いが君には気の毒だからと思っ・・・うぇ、げほげほげほ」
スズキは口で呼吸をしながら説明を試みるうちに、むせてしまう。仕方なくタオルで口をふさぎながらカルテに記入した。腹部、理屈壺より、屁放出、と。これで「屁理屈」は多少なりとも軽い「理屈」になるだろうか。整然とした理屈には筋が通っているが、屁理屈は、ふらふらと芯がなく、どうもいただけない。おまけに臭いから皆が避ける。
そういえば、とスズキは思い当たる。丁寧な物腰ではあったが、この男の口調、収賄罪だか詐欺罪だかで大学を追い出された先輩のそれとよく似ていた。・・・なるほどね。腹の壺は真っ黒だったが、こればっかりはお手上げだ。腐った性根までは面倒見きれない。
鼻をひくつかせて、部屋の匂いを確かめると、スズキは顔をあげた。
「次の方、どうぞ」