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「次の方、どうぞ」(1) 堪忍袋の緒

 その男は診察室に足を踏み入れた時から、顔を真っ赤にしていた。小柄な体を精一杯いからせて、どすどすと足音をたてーーーたてようとがんばって、一歩ずつ歩いてくる。まるで、映画『ロッキー』を観たあとすぐの高校生みたいだ。
 スズキは一瞥してから、カルテに目を落とすふりをする。もちろん何も書いていない。
 男は、どかりと勢いをつけて腰をおろした。きしっと粗末な回転いすが嫌な音をたてる。
「こんばんは、タナカさん。今日はどうされましたか」
 男がこちらに向き直るのを待って、いかにも気のないふうに、スズキは尋ねた。
 ---沈黙。男の荒い鼻息だけが異様に大きく診察室に響いた。
「どうされました?」と、仕方なしに、スズキは男に向き直ってもう一度尋ねる。
「ど、ど、ど、どうもこうもっ、あるかっ」
 今までたまっていたマグマがようやく噴火口を探し当てたかのようにどっと噴き出す、そんな感じだ。じゃなきゃこんなに俺の顔に唾がかかるもんか、とスズキはうんざりしながら白衣の袖で、そっと唾をぬぐった。
「どどどいつもこここいつもっ、勝手な注文っ、言いたい放題、いいい言いやがって」
 男は目をつりあげ、今にもスズキに殴りかからん勢いで、また唾をとばしてくる。治療の目的はこの吃音か? スズキはちらりとそんなことを思うが、この興奮状態からすると、どうやら別のことらしいと判断する。
 受付で記入してもらう簡単な問診票に改めて目を通すと、職業欄には「接客業」とあり、どこでもみかけるファストフードの名が記されていた。
 深夜23時。繁華街にあるとはいえ、この時間に開けている診療所にわざわざ立ち寄るくらいだ、よほど腹に据えかねることがあったのだろう。腹に据えかねる・・・なるほどね。スマイルゼロ円の結果か。あらかたの治療見当をつけると、スズキは立ち上がった。
「わかりました、落ち着きましょう、えー・・・タナカシゲユキさん」
 名を呼びながら傍らの小さなベッドを指差す。男が興奮しつつもベッドに腰掛け、スズキがその肩に手をおくと、途端に男は気を失った。くノ一のように診察室に現れた助手のマユミが、奇術ショーさながらに男に白い布をかけ、かちゃかちゃと施術用具を準備する。
 スズキは男の鼻に鉤状の金属棒を入れると、ずるずるとひっぱり出した何かを、ぱちんと音をたてて切った。

 ―――三十分後。憑き物がおちたようにすっきりした顔のタナカが、おだやかな笑みをうかべ、丁寧にお辞儀をして出て行った。ここに入ってきた時とは別人のようだ。大きなマスクをしたままのマユミが「お大事にぃ」とくぐもった、けれど明るい声で送り出す。
 「・・・堪忍袋の緒をね、切っておいたよ。最近増えたねぇ、自分で切れない奴が」
スズキは、ため息まじりにカルテにペンを走らせる。経鼻;堪忍袋の緒、切除、と。
 「先生みたいに無理な注文ばっかりする人が多いからですよ」
マユミが怒ったように言う。はて、と首をかしげるスズキにマユミはとどめをさした。
 「やだ、先生、気がつかなかったんですか? 駅前でお夜食買う時、やれトマト抜けだの、やれピクルス入れるなだの、いっつもタナカさんに言いたい放題じゃないですかぁ」
 マユミから目をそらし、スズキは聞こえなかったふりをして次のカルテを引き寄せる。
「次の方、どうぞ」

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