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「次の方、どうぞ」(2) 転ばぬ先の杖

「ご存知とは思いますが、遺伝的な疾患です」
 ひと昔前なら「ロマンスグレイ」といった言葉で注目を集めたであろうその男性は、カタカナ混じりの病名を口にした。大きめの単語帳のようなカードに、その病名が丁寧な筆跡で書かれていた。耳にしたことはある。しかし神経系の疾患であるということ、指定難病であること、そしてこの国では患者数が一桁しかいない、非常に稀な疾患であること以外、スズキは知識を持ち合わせていなかった。
 申し訳ないが、と前置きして自分が知る範囲のことを正直に伝えると、「知らないことを知らないと正直にお答えくださる先生に、悪い方はいません」と、その男性はやわらかく微笑んだ。そして、そんなことは百も承知といったふうに鷹揚にうなずくと、例のカードを一枚ずつ繰りだした。紙芝居ふうに進められるその説明は、下手な講義よりわかりやすく、スズキは時折、簡単な質問をはさみながら男性の話を興味深く聞いた。柔らかな口調とは裏腹に、常に左手が固く握りしめられているのが、気には、なったが。
 「・・・といった症状が、いったいいつ発症するのか、わたくしにも、専門医である主治医にもまったくわかりません。しかしながらその発症を遅らせることはできる、と。そしてうまくすれば、わたくしの寿命が先にくるかもしれない。したがって、現在はこの薬の服用と、それを補うサプリメントをこのように」
 スズキの事務机の端に並べられた小さな袋には、数種類ずつの錠剤、カプセル、サプリメントのタブレットがカラフルな宝石箱さながらに並べられた。あまりの分量に、スズキはこれは何日分ですか、などと医者らしからぬ質問をぶつけてしまう。
 男性はまたやわらかく微笑むと、もちろん一日分です、そう答えると、左手に持った杖に体を預けて、おもむろに立ち上がった。ようやく本題に入るといった厳しい症状で、
 「主治医は、この左足が上がらなくなったのは、私の持つ疾患とは無関係ではないかと言うのです。もし症状が出るのであれば両側で出るはずであると。わたくしはそれを信じていないわけでは、ない。ですが、先生の見立てをうかがいたい、それだけなのです」
 いつか発症するかもしれぬ、自分の遺伝子に刻み込まれた疾患―――これを持って生まれた者の苦悩は、そう簡単に理解できるものではない。今日に至るまでに、彼はどれほどの深い闇の中で過ごしてきたことか・・・
 まっすぐに向けられた強い視線に負けそうになりながら、「タニザキソウジロウさん」と名を語りかけ、スズキは触診を申し入れる。そして、横たわる男性の左手に触れた。
 彼の闇は深い。が、しかし、疾患を持つ者も、持たない者も、明日、往来で車にはねられる確率は、同じなのだ。今、ここに生きているという儚さに、変わりがないように。
 スズキはゆっくりと、固く握りしめられた左手の指を、ひとつひとつほぐしていく。たくさんの「転ばぬ先の杖」を丁寧に指からはがすと、小さな杖をひとつずつ、ぽきぽきと音を立てて折っていった。二本ある人の手の、一方で生活を調えていくのであれば、杖を握る手はあと一本しかない。もてあますほどの杖で、足がもつれるのは、無理もなかろう。
最後に残った、太くしっかりした杖を左手におくと、スズキは男性の手を軽く握らせた。もう、そんなに強く握りしめる必要もないだろう。これだけ太い「転ばぬ先の杖」は主治医の存在か、財産か、家族の支えか。いずれにしてもこれを手に入れているだけ、男性は幸福なのだ。そう信じたい。スズキは折った杖の処理をマユミに託すと、深呼吸をした。
 「次の方、どうぞ」

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