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クリスマスチキンの骨、どうするか問題。

クリスマスチキンを焼く。
これを恒例行事にしてから四半世紀ほど経つ。むろん、子どもらが喜ぶ(かもしれない)という下心とともに、「大きいものを調理する」楽しみを、年に一度くらいは味わいたい、というわたしの欲でもある。
きっかけは生協宅配のチラシに煽られた、というのが実態だが、しかしある年(どういう訳だったか、鶏肉全般の供給不足で)丸鶏入手が抽選となり、見事にはずれた時には、町中の肉屋さんを訪ね調達に走ったりもした。(この時点では我が家の周辺にはいくつかの肉屋さんが健在だったことを思うと、町の商店街の衰退ぶりがわかろうというものである)
翌年には反省も含めて2週連続で抽選に参加したら、今度は2回とも当選してしまい、冷凍庫に入らず困るという目にもあった。途中から、もち米を混ぜたごはんを炊いて、おなかに詰めるのが定番になった。肉汁がごはんに染みて、肉よりもごはんに人気が集中したこともあった。

数年住んだ転勤先(関西)の生協では丸鶏の販売がなく、ショッピングモールの肉屋さんに注文したところ「首」つき(頭だけがない)で届き、ぎょっとしたことも、今となってはよい思い出だ。(この地域では日ごろから「せせり」として首部分の鶏肉が販売されていた。東京では通常のスーパーに食材として並んでいることはあまりない)
一言で「丸鶏」と言っても、かなり大きさに幅があることも知った。この肉屋さんが良心的だったのは、全体の重さを測り、その日の鶏もも肉の価格で売ってくれることだった。「来週だと鶏もも肉特売の138円は木曜日」なんて情報をくれる。つまり丸鶏2キロサイズだとして、水曜日に198円で買うよりも、うんと安く、3000円未満で手に入るということ。使うオーブンのサイズを確認してくれるのもありがたかった。(オーブンの庫内に入らなかったら、元も子もない)
最近では、手の平に乗るサイズでおしゃれに調理されたのがデパ地下などで売られているし、大きなスーパーなどでは冷凍品も通年で手に入るようになった。特別感の点で言えば、四半世紀を経て、時代も変わったのだろう。

今思えば、チキンの切り分けは、丸鶏に添えられてくる手順書の通りに進めるものの、家族だけで食している間は、次第に「野蛮化」していくのが常だった。骨を持ち、かぶりつき、骨の隙間の肉は箸でこそぎ、しゃぶりついて、ほとんど啜る。それも十分に貴重な経験だったと今は思う。我が家の経済状況からしたら、頻繁に「骨付き肉」を食する機会はない。改めて言うまでもないが、動物の肉は骨の「きわ」にうま味が集まっているのだ。生き物として肝心要の場所にこそ。

子どもらが成長すると、順に「今年のチキン会」に招く友人を連れてくるようになった。ある程度の行儀を身に着けた子どもらは、もう野蛮化しない。いや、招待客も含め、皆合意の上で野蛮化するのは構わないのだが、チキン会をきっかけにはじめて我が家を訪れる友人もいる。そうなるとなかなか最初から羽目は外さない。
我が家の子どもが中心線からナイフを入れ、左右に分けていく。左右のもも肉を切り離し、左右の手羽先を外していく。大きな肉の塊をはずし、皆に切り分ける。時々、友達の賞賛を受ける。「ちゃんと解体できるんだね!」
子どもらにとっては毎年のことなので、順々に手慣れていく。
ちなみに、もも肉や、手羽先は、いわゆる「本体」からナイフで切り離され、(時にじゃんけんなどで争奪戦になりつつ)手で持ってかぶりついて食べるので、唾がついた骨はそのまま廃棄する。

だから、環境問題とか、食育とか、哲学的な考察のような、なんというか強い理念をもって言うのではなくて、お行儀よく食べた後の、「本体」の骨とその周りに「まだある肉」を、なんだか捨てるにはしのびない、ただそれだけなのだ。
背と腹の骨はそのままに、主な肉はナイフで剥がされている。おなかのもち米ごはんも見える範囲ではからっぽ。これを鍋に入れ、ひたひたの水を入れ、残った玉ねぎやセロリの葉などと一緒に、煮る。
火にかけるにつれ、あばらから肉が剝がれていく。腱や筋からゼラチン質が溶け出してくる。煮汁は次第にとろみを増していく。焼く前に丸鶏を漬けこんでいた醤油だれで調味する。
多めに炊いていたもち米を団子状にして焼き、器に盛ったらこのスープをかける。またはもち米を入れて溶けるチーズなんか足して、リゾットふうにする手もある。

要はこの作業、生物標本の作り方と同じである(さすがにセロリは入れないと思うけど)。標本作成の目的は「骨」である。肉をきれいに煮て落とし、骨保存のために余分な腐敗原因を除去する作業だ。
ヒトは骨を食することができない。肉から栄養分を得る。いや、うま味も、だ。その境目の「きわ」からそのうま味をいただくには、この方法がいい。
わたしたちの栄養になるものは、そのまま「腐敗原因」になるものでもある。有機物—機能が有る物、という表現もする。それがヒトのからだに置き換わるということだけれど、生き物が、生き物を「食べきらないこと」は、ヒトがその機能を放棄するという意味も持つのかもしれない。
うまく表現できないのだけれど、たくさんのごちそうを前に、どこかうしろめたさを感じてしまうのは、その「機能」を使い切れないことを、直感的にわかってしまうからじゃないだろうか。
繰り返すがそんなに強い理念はない。ただ、「食べる」以上は、「食べきること」も考えたい。チキンに限らず、過剰とも言えるごちそうが氾濫するこの国の、この時期に、こと、戦乱の世界となってしまった今年は、より複雑な気持ちを抱えてしまうから。

なんてことを、考えてるのは変な母親ひとりだけで、子どもらがどう考えているのかはわからない。でも鶏スープは飲む。ちょっと冷えるとゼラチン質で固まってしまう鍋の表面をつつき、火にかけ、時に豆腐や浮き身になる野菜を椀に入れたうえで。
「うまい」
それで、いいのだ。

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