4o’clock
4o’clock
その名を聞いたのは20代の頃。海外からの来客をアテンドした時に雑談からそんな話題になった。今のように手元で検索するすべなどない90年代。「トケイソウ?違うよ。」つたない耳はその音をfourと理解するのに時間がかかった。「4時頃咲くでしょう?日本では違うの?」あぁ夕方の4時!
植物の名は見た目や匂い、そして使われ方に由来することが多いように思っていた。でも朝顔と同じ「花が開く時間」がそのまま花の名なのだった。
なかなか暮れない夏の宵、公園からの帰り道、路地の入口にふわっと放たれたよい香りを思い出す。「ごはんだよー」と呼ぶ誰かのお母さんの声、どこかのおうちのお風呂場のかこーんと桶のぶつかる音、はしゃぐ子どもの甲高い声、きしむ自転車の音・・・夕餉の煮魚の匂いやお風呂場のせっけんの匂い、そんな生活の匂いに交じって、その「ふわっと」はそこにあった。
たしかに夕方、咲いていた。それが「夜活動する」蛾のために咲くのだということはなんとなく聞いていて(ちなみに私の子ども時代には「夜活動するのが蛾、昼活動するのが蝶」と教わった)、あぁ皆が活動していない時間に生きる生き物もいるのだ、という安心感が、どこかにあった。
子どもと絵本を読む中で出会った、かがくえほん『ゆうがたさくはな おしろいばな』(福音館書店)を、繰り返し図書館で借りて、ついにネットの古本屋さんで注文したら、なんと北海道の書店から届いたのは40代の頃か。それほど執着するのはなぜだろうと自問しながらも、彼らの故郷(原産)は中南米にあること、サトイモの仲間であること、種だけではなく「種芋」からも繰り返し発芽することを学んだ。そうか。こぼれ種で育っているだけではなかったのだ。だからいつも同じ路地に、そう、たいして手入れなどされていないような日陰の一角に、毎夏彼らは咲いていたのだ。
興味本位で自宅の敷地に「生えてしまっている」彼らを掘り返してみた。小さい芋、これは少し前のこぼれ種から芽吹いたのかも。大きい芋。これはたぶん長男が小学生の頃からここにいて、生えてくる枝はたしかに年々太くなっているのだろう。芋を並べて、自分の来し方を振り返る程度には、わたしも歳を、重ねていた。
人生の後半を考えざるを得ない50代になって少しずつ、この花のようでありたいと思うようになった。
暑い夏の夕方、ひとが活動を終えようとする時間にひっそりと咲く。毎年同じ場所でしげり、ふわっとした匂いで夜間に蛾を呼ぶ。日の出る頃には花をしぼませ、やがて、これでもかというほど種を散らす。冷たい風が吹くころになると、関節をたたむように節を折る。落とした葉も、折れた節先の枝も、地下に眠る種芋のこやしになって冬を越す。芽吹く季節が来れば枝葉を伸ばし、また繰り返し同じ役目を果たす。来年も。その次も。コンクリートにふたされない限り。
誰よりも輝く花を咲かせることに、ひそかにあこがれていた20代のわたしはもういない。決して「いつもそこにいる」大木になるようなことはないけれども、種や芋に姿を変えていつか来る出番を待ち、長い歴史の中のごく一部の役目を、平穏に終えることを願う年齢になってきている。
しかしそんな理想も、温暖化の前では崩れてしまいそうだ。日暮れの気温も低くはならないし、北風が吹いても節を折ることを忘れたように葉を伸ばす。そしてこれは道理なのか、花は咲かない。従って種も増えない。なんてこった、少子高齢化社会は彼らの世界でも進んでいるようだ。
土に混ざった真っ黒なこぼれ種が、ひっそりと息をひそめ、芽吹くチャンスを待っている。その、しぶとさを祈りたい。 2022.10.09
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