次の方、どうぞ(12) 赤い糸
「・・・それで、いろんなことが、半分なんです」
その女性は自分でも納得できない、という感じに、首をかしげながらつぶやいた。
曰く、甘いものを食べても途中から味がしなくなる、気分を晴らそうとコメディ映画で大笑いしても途中から妙に冷めてしまう、本を読んでも何故か後半のあらすじは全く内容が頭に入らなくなる・・・そんな状態を彼女は「半分」と言った。
カルテの記載を見て、少し変わった苗字だと思うのと同時に、昔世話になった教科書をぼんやりと思い出す。
「悩んでいるうちに、今度は、左腕が上がらなくなってしまって」
使える腕も半分になってしまったということか。
彼女は深くため息をつくこともなかった。途方に暮れている、とは口にしないものの、その言葉通りの表情で、彼女の視線は宙を泳ぐ。ぼーっとしているように見えて、その視線は意外に強い。
--- あぁ 見えているのだな、とわかった。
「肩関節と手指の可動域を確認しましょう。神経伝導速度測定もあわせて」
わざとらしく、専門用語に聞こえるかもしれない漢語を、明るい声で並べてみる。ふと彼女の視線がわたしをとらえ、それはしっかりと覚醒した「彼女の」視線に変わった。泣きそうな顔で微笑んだようにも見えた。すかさず左腕をとり、名を、呼びかける。
「ホウオンジ キミコ さん」
シャッターが下りるように、青白いまぶたが彼女の瞳をふさいだ。椅子にもたれかけさせたまま、左手の薬指からリングをそっと抜いた。質素だが、大事に扱われてきたものだと、わかる。持ち重りのある、良質なリングをひと回り撫でると、複雑に絡み合った赤い糸が浮き上がった。丁寧にほどいてやれたらいいが、しかし。
「だめです、先生、刃物は」
カッターを取るわたしの手を止めたのはマユミだった。わたしの動きを制し、絡んだ糸を細い指先でほぐしはじめた。細かい作業は任せるに限る。
腕が上がらなくなってしまって、と消え入るように話した後、彼女は困っているとも、痛むとも言わなかった。彼女は受け入れようとしている。腕が上がらない事実を。そしてその先にある自身の末路をも。それを選ぶことを否定しない。
けれども、彼女はここへ来た。
神経研究の権威、法恩寺先生が、神経難病で亡くなられたことは少し前に大きく報道された。神経の動きを電気信号として測定することも、画像として認識することも、今ほどは、かなわなかった。それでもあの時代に、その知見を広められた先生なら理解してくださると思いたい。彼女は、まだ人生を続けられる身体を持つ、ということを。
だから、どうか、「半分」を返してほしい。
その指の先につながる「もの」との決別を、あるいは彼女は望まなかったかもしれないな、という思いを振り切って、リングを彼女の指に戻す。
リングにつながる赤い糸は妙な絡まりがほどけ、細い細い一本になった。刃物で切ることはしなかった。どうか、これから先も、細い糸がつながったまま、ゆるやかに溶けていってくれるようにと、祈りながら。
「次の方、どうぞ」