「次の方、どうぞ」(10) 匙、ふたたび
「苦いんです」
文字通り「苦虫をかみつぶしたような」表情で、その青年は言葉を絞り出した。スズキは次の言葉を待つ。
「飯食っても、肉でも魚でも、コーラ飲んでも・・・時々は、水飲んでも、苦い」
口の中にたまった苦い唾液を、はやく吐き出してしまいたい、という表情にマユミは敏感に反応し、さりげなくティッシュを差し出す。青年は、吐き出されたのが特段おかしな色がするわけでもない、ただのつばであることに、少しばかり落胆さえしているようだ。
事前の問診票で、服用している薬の副反応でないことは確認済みだったが、
「例えば精神的に大きなショックを受けた後なんかに、味がわからなくなるっていうのは、わりとよくある話なんですが、何か、自分で思い当たるようなことはありますか」
たまにはスズキも、一般的な質問をするんだな、とマユミは新鮮な気持ちになった。
「・・・あるっちゃ、あるンすけど。でも」
スズキは、見るからに「最近の若者」の見本のような青年の、その澄んだ目に、たくさんのたくさんのたくさんの闇と光とを読み取るが、口にはしない。
「生きてりゃみんな」
青年がすこし言い淀みながら「いろいろあるでしょ」と悟ったような言葉を吐き出したのを、なるべくさらっと受け流して、スズキは軽く同意する。
「ですよね。じゃ、今日のところはまず、これを」
スズキは「魔法の匙」を差し出す。
「私は宗教家でもなく占い師でもない。それに、この匙を渡すことは医療行為ではないので、お代はいりません。ですが、一週間、この匙で食事をしてみてください。味覚障害を改善する可能性があります。私ができることは、今日はここまで」
立ち上がった青年の肩に、スズキは黙ってぽん、と手を置いた。
「お大事にぃ」いつもと変わらないマユミの明るい声が、青年を送り出す。
・・・「あのですね、先生、この間はイヌ相手でしたけど、こんなにタダで診てたら、たちまち診療所閉鎖ですよ。来月のテナント料値上げ、まさか忘れてないですよね」
マユミの愚痴は、ことに経済的な愚痴は珍しい、と思いながら、スズキも珍しく自分の行為に説明をつけた。いつもなら、しない言い訳。少しばかり、闇に浸食されたか。
「あの匙に入ってるのは、亜鉛です。単なる亜鉛欠乏による味覚障害なら、多少は改善するかもしれない。キヨシロウさんのようにね。・・・ですが、たぶん、改善はしないでしょうね。五感に障害が出るというのは、しかも、味覚に出るということは、ヒトにとって相当なダメージがあったということでしょう。それが証拠に、ほら」
軽い挨拶のつもりだったが、あの青年に触れたスズキの左腕は、その後しばらく上がらなくなった。姓名を確かめもしなかったのに、相当な闇を引き受けたらしい。それでも「食事をする」行為を、彼は拒絶していない。ならば、光は、生きる力は、残っている。
「自分が戻れないほどの闇に、私は深入りできない、悪いけど。まぁ、それで私が消えて、テナント料も踏み倒せるなら、それはそれで・・・いいんだけどね」
力なく笑うスズキに、マユミは声がかけられなかった。
「次の方、どうぞ」
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