PASSION~プロローグ・出会い~
わたしが、高校野球と沖縄を好きになった理由(ワケ)―南米へ導いたもの―
中学3年生の時、あだち充の野球漫画「タッチ」を読んで、高校野球に興味を持ったわたし。高校入学前の春休み、センバツ高校野球の中継を何度か見ていた。
沖縄尚学高校が優勝したその春。沖縄尚学のアルプススタンドの盛り上がりが面白くて、「沖縄って面白そう」と、「沖縄」に対して興味を抱いたのもこれがきっかけだった。
中学時代、吹奏楽部に所属していたものだから、高校でも吹奏楽部に入部した。第一希望だった高校に入学することができたのに、勉強についていけなくて、クラスに馴染めなくて「部活」が逃げ場になっていた。部活の仲間のことはみんな大好きだったし、一緒にいて楽しかったから。
夏が来た。楽しみにしていた高校野球の応援。その夏、母校は埼玉県ベスト4。高校野球の「熱さ」を自分の身も持って体感した夏だった。
高校野球にドハマりして、高校野球関連の雑誌を読み漁り、スコアの付け方も独学するほどだった。
高校3年生の夏、母と一緒に初めて甲子園に行った。
出場校の応援席―アルプススタンドの盛り上がりと熱気を直に感じ、思ったのだ。
「甲子園て、なんでこんなに盛り上がるんだろう…」
こう思ったのがきっかけで、高校3年生の秋には、大学の卒業論文のテーマを「高校野球」と決めた。
高校野球で卒論を書くには、社会学部を選択したらよいかもしれない。
「進学」が当たり前の高校にいたため、どこかの大学に入ることが前提だった。
「高校野球で卒論を書きたいから、社会学部を目指そう」
東京にある武蔵大学社会学部。
ここに入学したら、高校野球で卒論を書けそうだった。
だが、私は勉強ができなかった。受験勉強に励むことができず、あっさり不合格。
けれども、浪人は嫌だった。5つの大学の入学試験をうけたうち、唯一合格していた大学の社会学科に入学することにしたのは、武蔵大学には転入制度があり、他の大学で2年学べば、武蔵大学に転入できることも知っていたから。
そして私は2004年4月、武蔵大学社会学部に2年次転入学を果たした。出会いとか、縁とかいうのは不思議なもので、その年の春先、祖父が沖縄のリゾートホテルの無料宿泊券を当ててきた。
ずっと、私は沖縄に行ってみたかった。
宿泊券を譲り受け、6月、2泊3日人生初めての一人旅。初めての沖縄。
青い海と空。沖縄の心地よい三線の音。なぜか心穏やかにさせてくれるウチナー口。沖縄そばの美味しいこと。すっかり沖縄にハマってしまった。
こうして、私の「野球好き」と「沖縄好き」が出来上がった。
大学3年生の秋、いよいよ卒論執筆への準備が始まる。沖縄・石垣島の八重山商工高校が翌年のセンバツ大会出場を確実にした秋。八重山商工を題材にしたら面白いだろう!リアルにフィールドワークもできる。
八重山商工はセンバツに続き、夏の甲子園も出場。春も夏も甲子園でリアルに八重山商工を追っかけた。
甲子園が終わると私は石垣島を訪れ、2週間ほどフィールドワーク。いろんな人たちに出会い、話を聞いた。
その後、およそ2万字もの卒論が完成した。
人に会って話を聞く楽しさと、それを文字にしてまとめる楽しさを知った。書くのが楽しくて仕方なかった。
一方で、卒論執筆と同時に「就職先」も決めなければいけなかったのだが、わたしは卒論を書くほうが楽しくて、就活は「適当」だった。「オモシロそう」と感じた会社の採用試験を受けるものの、ことごとく不採用。
結局、卒論を書き終えた秋、地元・埼玉にある小さな工務店から採用通知をもらい、大学卒業後は事務職へ就いた。
仕事が面白くない。
新卒で勤めたその会社はたった2か月で退職し、東京のベンチャー企業の事務職に転職。
土日休みで残業なし。
平日はOL。休日は、三線サークルに参加したり、路上ライブに行ったり、よく遊んでいた。
しかしやっぱり、フツフツ沸きあがってくる思いがあった。
―何か書きたい。
(続く)
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