PASSION アリアンサにいる野球お化け
餅つき、花札、年越しラーメン。年が明けた1月3日、朝から久しぶりに晴れていた。この日の午後、マリアンがユバで一番野球に詳しい箕輪畑助さん(66)を紹介してくれた。畑助さんが第三アリアンサの野球場に連れて行ってくれることになった。
小さな古い乗用車に乗り、アリアンサ村を走り抜けていく。ただただ、まっすぐに続く道。車のスピードは超快速。インド種で独特のコブがついた白い牛がポツポツといる。大豆畑、ゴム採取ができるという林を抜けて、第三アリアンサに入っていった。
商店が連なり、人がゆっくり歩いている。馬に乗ったブラジル人のおじさんは畑助さんの知り合いで、挨拶を交わしていた。
日系人の顔つきをした人は特に見られず、みなブラジル人だった。
”野球お化け兄弟”
野球場に到着。歩み寄るとアリアンサ生まれの佐藤克郎さん(65)と克郎さんの弟であるゴスケさん(61)がユニフォームを着て立っていた。
「おー、ちょうどいいところに来たな。これから練習だよ」
克郎さん、ゴスケさん、ハタスケさんは、現役の野球選手。ゴスケさんは、普段はブラジル南部のサンタカタリーナ州に住んでいるが、年末年始はアリアンサに戻ってくるのが恒例だという。
練習が始まった。克郎さんが投げて、ゴスケさんがバッティング。外野までボールがよく飛ぶ。克郎さんも力強いストレートを投げ込んでいる。60代とは到底思えない。その横で、ブラジル人の少年たち4人ほどがボール拾いなどを手伝っていた。
「手伝わせて、冷たいジュースでもごちそうしてやれば、子どもたちは喜ぶよ。手伝いをさせることで挨拶や礼儀も教えているしね。ここに来る子どもたちはみんな『ありがとう』や『こんにちは』がきちんと言える。今日初めて来た子どもがいるけど、もともと身体能力は高いから、すぐにバットにボールを当てる。きちんと練習すればうまくなるね。日系人、ブラジル人で壁を作ってはダメなんだよ。壁があるから犯罪も起きる。今の教育は嫌だったらすぐに『やらなくていいよ』ってなるでしょう。へこたれるのが早すぎる。野球もそうだよ。できればきちんと見てあげて、厳しくても練習して、優勝の喜びを味あわせてあげたいんだけどね」
克郎さんが言った。
練習後、車に乗ってバール(軽食堂)へ移動。子どもたちはジュースを飲んで去っていった。私たちはビールを片手に野球談議を始めていた。
「野球をやると、いい友達がたくさんできる。若い頃より年をとった今のほうがおもしろいかもしれないね。練習にしても大会にしても。オールドボーイはいいよ」
オールドボーイとは、野球をやるうえでの年齢別カテゴリーのことである。30歳から70歳くらいまで、およそ10の年齢ごとにグループが分かれている。毎年大会も行われていて、克郎さんは何度も優勝チームの一員となっているそうだ。
「40歳で1回、50歳で4回、55歳で1回、60歳で6回、65歳で2回ね。準優勝なんか何回もしているよ。70歳近くになっても野球ができる幸せがあるね。野球はチームワークでしょう。仲良くやれればそれで十分。色々言い合えて、笑ってすごせる仲がいいね」
オールドボーイで活躍する人たちは開拓にも打ちこんだ。苦労を共にしてきた仲間たちである。移民は日本から野球を持ち込み、束の間の休みには練習や試合に明けくれた。そこには応援する女性や子どもの姿も欠かせない。
移民たちの心をつなぎとめる結び目が野球だった。
年末年始を利用して、ユバに遊びに来ていたアリアンサ育ちの日系二世・パウロさん(59)の言葉を思い出す。
「野球の試合はすごかったよ。試合でミスジャッジが出たら会議になってしまうし、応援団は斧を持って応援するほど真剣な雰囲気だった」
そんな人たちは今やだいぶ年を重ねたが、オールドボーイがあるから現役続行。ノロエステというチームには、野球おばけと言えてしまうくらいの野球好き人間がいるという。
「僕はピッチャーでしょ。2日間で4試合投げることがある。足が痛いとか、疲れているはずなんだけど、あとから投げるほうがうまく投げられるんだよね。僕も野球おばけよ」
にやける克郎さん。
「おばけじゃなくて、怪物くらいにしとこうよ」
苦笑するゴスケさん。
思いは、どこまでも強く。
ビールを飲み干したあと、そのまま克郎さんの自宅に連れて行ってもらった。第三アリアンサの中心からやや離れた、とても静かな場所に克郎さんの自宅はある。周辺は農園だ。庭に置かれているテーブルで、ケーキとお茶をもらいながら、野球談議の続きとなった。
庭の奥にある空間は、克郎さん手づくりのピッチング練習場で、周辺は牛に入られないようにきちんと柵で囲まれている。中央にピッチング板があり、4つの点が描かれた中央に、もうひとつ点が描かれている。その点が、ど真ん中のストライクということだ。
この練習場は40歳のころ作ったそうで、地面の凹凸は工夫されてのものだった。投げたボールが自分の方に戻ってくるように、マウンドはピッチング板より低く設計されているのである。さらには外灯もついている。
夜でも練習可能にしたのは、昼間は子どもたちの練習を見ていたり、なかなか自分の練習時間が取れないからだ。
克郎さんの野球に対する想いは無限大なのかもしれない。
練習場のすぐ脇には物置小屋があって、埃だらけの段ボールからは数え切れないほどのトロフィーが入っていた。言うまでもなく、そのすべてが野球関連だ。
畑助さんとユバに戻ったときには全員で食べる夕食の時間はとっくに過ぎて、片付けも終わっていた。
「肉を焼くから、一緒に食べよう!」
畑助さんが冷蔵庫から肉の塊を出した。荒塩を振って玉ねぎと豪快に炒める。それと白米。シンプルだがとても美味しい。
ユバで過ごす最後の晩だった。明日はもう、ここを去る。
ユバを去る日
1月4日、空が朝焼けに染まっていた。良い天気になりそうだ。朝食にはパンを選んで、ユバ産のマンゴージャムをたっぷり塗った。コーヒーには採れたてのミルクを注ぎこみ、ゆっくりと最後の朝食を味わった。
午後、私は散歩に出かけることにした。
ユバとアリアンサの風景を写真に収めたかったのだ。昨日は畑助さんの車の中から素晴らしい風景が見えたのだが、あまりのスピードの速さにカメラを出すことができなかった。
よく冷えたアイスコーヒーを水筒に入れて、帽子をかぶって出発だ。
太陽の光が容赦なく降り注いでくる。食堂から出て赤土の坂道を上っていくと、360度開けた風景が現れた。青空と雲と緑の大地。
空に負けそうな気がした。
今までに見た、南米の空のどこよりも、広くて大きな空。
シュッ!
そんな音でも出しそうなくらいの軽快な雲たちが空を彩っている。
シャッターを切りながら歩いていく。アスファルトで舗装された一本道。両脇は畑や草原があるだけだ。第一アリアンサまでニキロはある。歩き始めて45分後「1st Alianca」と書かれた看板にたどり着いた。
野球場を発見して中に入る。観客席が日影となって、休憩するにはちょうど良い。水筒の水をガブガブ飲む。半端ない暑さで、ユバに戻るのも大変だった。
空はどこまでも広い。最も美しく、最も壮大な風景が広がっていた。どんな言葉を用いたとしても表現できない。
18時すぎ、いつもの角笛。夕食はビーフシチュー。デザートにはアイスキャンディー。
心から、ごちそうさまだ。
マリアンがバスターミナルまで送ってくれることになっていた。
「お手伝い、ありがとうね!またいらっしゃい」
私はここで何もできなかったと思うのに、次々とあたたかい言葉をかけてくれる。ブラジル式に抱き合って別れの挨拶。
車に乗るが、マリアンは劇場の前で停車した。
「マンゴー持っていって」
昼間の空が絶景だったら、夕日もまた絶景だった。オレンジ色、丸い太陽、燃える空。一刻一刻変わりゆく。二度と忘れることはないだろう。
こうして、ユバ農場で過ごした15日間が終わりを告げた。人間らしく生きることをひとつひとつ教えてくれた場所。数ある日系人の移住地のなかでも独特の営みがなされているユバ農場。ここだけにしかないモノがたくさんあった。
創設者である弓場勇さんの言葉―祈り、耕し、芸術すること。
ユバ農場はこの言葉のもと、在り続けていくに違いない。
いまの日本、日本人が失ってしまったものも、鏡のように見せてくれるに違いない。
私たちは、それらをもう一度思い出したい。
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※いつも読んで頂き、ありがとうございます。今夜(6月29日)から7月3日まで東京にて所用&取材等のため更新が遅れます。次回から「アルゼンチンの延長戦」が始まります。
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