PASSION~途切れない、出会い~
大学を卒業し、「何か書きたい」という思いが強まり、社会人2年目の春、私は夜間のライタースクールに通い出した。
7月、ライタースクールで出された課題はタウンマップの作成だった。気になるまちを取材して、タウンマップを作成してきなさいというものだ。
さて、どこのまちを取り上げようかと考えていたとき、会社にあった新聞に目を向けると「日本とブラジル 交流100周年」とあり、群馬県・大泉町のことが特集されていた。大泉町にはブラジル人が多く住んでいるという。地図を広げて調べてみたら、実家から近い場所に大泉町はあった。
よし、大泉町を取り上げよう。
それまでは、ブラジルに全く興味がなかった。南米大陸で地理がわかるのは細長い国・チリだけだったほど…。
近かったブラジル
2008年7月26日、母の運転で西大泉駅近くに到着。大通りで信号待ち。自転車に乗った集団6人ほどが通り過ぎた。驚いた。みな「日本人でない」のだ。日本語が聞こえてこない。信号待ちで、隣に停車していた車に乗っていた2人も「日本人でなかった」。
車を止める場所を探しているうちに「BRAZILIANPLAZA」にたどり着いた。駐車場も無料だ。車を止めて店の中へ。
外国語で書かれたチラシ。フリーペーパーなどがどっさり置いてあるコーナー。1階は電機製品のコーナーとともに、日本のお土産になるようなキーホルダーや手ぬぐい、ポストカード、外国製品のおもちゃも多数売られていた。客も「外国人だらけ」であった。日本語が一切聞こえてこない。小さなぬいぐるみを見ていた、日本人ではない男の子がいる。
「かわいいね」と母。男の子は「そうですねー。かわいいっすねぇ」。
日本語で言葉が返ってきた。
2階はフードコートとなっているようだ。置かれていたフリーペーパーを手に取る私。定員から話しかけられる。
「○※▽▲☆…」
「???」
私がキョトンとしていると
「どうぞ」
と言ってくれた。
階段のディスプレイには南米の楽器・ケーナやオカリナ、おもちゃがあり、欲しい場合は、1階にいる店員に声をかければ良いとのこと。母が買っていこうというので、店員らしき人物に話しかける。
「ここは、ブラジル人が多いですよ。言葉はポルトガル語とか」と説明してくれる。店員は日系人だった。顔が整っていてハンサムだ。品を選び、精算のため、再び1階へ。レジを打った定員は日本人だった。
「大泉はすごいですよ。ブラジル社会ができているからね。店それぞれに通訳がいるから、私はポルトガル語を話せませんが問題ありません」
この店員も大泉について説明してくれる。やさしい人たちが多そうなまちだ。
店を出た後、ブラジル料理が食べられるという「Primavera」へ。店員は全員日系人のようだ。ドリンクバーとパステルというブラジルのスナックを注文する。食べていると男性店員が「おいしい?ここは初めてですか?」と話しかけてきた。課題で来たこと、おもしろい場所はないかと聞くと地図を持ってきて、幾つか店を紹介してくれた。
そのうちの店の一つを訪ねた。「トータルリラクゼーション」「携帯ショップ」「語学学校」などが入った複合ショップだった。客は全員「外国人」。
店内にあったベンチで母と休んでいると、語学学校のスタッフから声をかけられた。
「ポルトガル語に興味はないですか?」
「あなたもブラジル人ですか」
「そうです。愛知から来ました。野球やっていて…高校野球で日本に来たんですよ。九州から…」
高校野球好きの私。見覚えのある顔だった。
「どこの学校ですか?高校野球、大好きなんですよ」
「日章学園ですね。甲子園出て…」
「お名前は?」
「瀬間仲です」
え、あの瀬間仲ノルベルトさん?
驚いた。確か、甲子園で大きなホームランを打ったはずだ。いま、野球はやっていないが、野球は大好きだと聞き安心した。
この日は、大泉町の夏まつりの開催日ともあり、出店も多く賑やかだ。最後に「宮城商店」へ入ってみる。
駄菓子屋みたいな雰囲気の小さな店だった。目的を伝えると、店員が語りだす。
「沖縄で生まれて、15歳のときにブラジルへ行ったの。コーヒー農園で…。なんでこんなことしなくちゃいけないんだろうって思った。でも、“神様が私を苦労させるようにしているのね”と思って頑張った。若いときの苦労は買ってでもしたほうが良い。終わり良ければすべて良し。今、楽しいもの。ここ(大泉)も、ブラジルも私のふるさとね」
66歳と言うが、全く見えない。キレイなおばさんだった。
若い男性が店に入ってきた。夏祭りの出店で購入したらしいじゃがバターをふたつ持ち、おばさんに渡す。
「去年、水もらったんでコレどうぞ」
「今年はどこで店を出しているの?」
「前の場所はほかのの店に取られちゃったので逆のほうで…」
店で品もきちんと買っていく。礼儀正しい青年だ。
「(1円などの小銭は)いらないよー」
小銭分をサービスしたおばさん。
私は、良い気持ちで大泉を後にした。出会いもあった。日系人の笑顔が広がっている。日本にしっかりと根付いた日系人の多いまち。礼儀も正しく、みな優しい。
“ブラジルは近かった”。
大泉を訪れた前日、埼玉・本庄第一高校が甲子園初出場を決めていた。本庄第一の監督・須長三郎先生は、私の母校・東京農業大学第三高校の元野球部監督だった。この時はまだ、私は須長先生とは面識はなかったが、物語は続いていく。本庄第一野球部には2人の日系ブラジル人・ピッチャーの伊藤ディエゴ君とショートの奥田ペドロ君が所属していたのだ。
2か月前の5月、私は農大三高野球部のOBであるMさんに出会っていた。農大三高野球部応援掲示板というものをインターネットで発見し、たまにチェックしていたのだが、野球部への熱い思いをいつも投稿していた人物がいたのだ。Mさんである。一度会って話をしてみたい。メールを送り、直接知り合うことができた。
Mさんは現役時に須長先生に野球を教わっており、先生のことを心底尊敬していた。須長先生が監督としても甲子園初出場となったものだから、とても嬉しい様子だった。
2008年8月5日、本庄第一高校の甲子園初試合。私は仕事中だったが、試合経過が気になっていた。会社の目の前にある銀行に行けば、テレビ中継を見られる。この銀行ではいつもNHKが映っていたからだ。
会社のパソコンでこっそり経過をチェックすると9回裏同点だった。銀行での仕事もあったため、会社を抜けだした。テレビを見ると、本庄第一が勝った様子。サヨナラホームランで勝ったらしい。その瞬間がリプレイされる。打ったのは奥田ペドロ君だった。
会社もお盆休みに入り、甲子園に行ったその日は、本庄第一の2回戦があった。試合には敗退したが、Mさんからメールが入る。
「今度、須長先生を紹介するので会ってみたらいかがでしょう」
嬉しい言葉だった。
Mさんが先生の経歴を教えてくれる。過去、ペルーへ野球道具を送ったことがあるという。ふと私はある本を思い出した。佐藤道輔著「甲子園の心を求めて」を。
「甲子園の心を求めて」は4部作からなり、野球の技術論が書かれているわけではない。「甲子園は日々のグラウンドにあり、生活にある」と綴られている。野球を通じて倫理、モラルを育み、人間的な成長をめざすのが高校野球の原点だと説いている本で、指導者や球児たちを魅了し続けている。
佐藤道輔先生(71)に手紙を書いた。佐藤先生は4校の都立高校で野球指導にあたり、東大和高校では二度決勝に進出し注目された。この本は、野球の技術論が書かれているわけではない。「甲子園は日々のグラウンドにあり、生活にある」と綴られている。野球を通じて倫理、モラルを育み、人間的な成長をめざすのが高校野球の原点だと説いている本で、指導者や球児たちを魅了し続けている。
『続・甲子園の心を求めて』では、1987年に佐藤先生の教え子・櫻井国弘さんが青年海外協力隊としてペルーに野球を教えに行くというエピソードが描かれている。貧しいペルーの子どもたちは野球道具を手にすることさえ難しい。それを知った先生は、ペルーに野球道具を送ろうという運動を起こす。ここからペルー野球と佐藤先生の交流が始まった。
須長先生は佐藤先生と同じ早大出身。このつながりから、ペルーへ野球道具を送っていたらしい。
11月、本庄第一のグラウンドをMさんと訪問した。
「ブラジル」という国が気になり始めて、ブラジルに行ってみたいと思ったものの、地球の反対側。ましてや治安も良くないらしい。無理だ、と感じた。
それでもどこか、気になっていた。
出会いは続いた。
醍醐麻沙夫著「森の夢―ブラジル日本人移民の記録」。
「島唄」で有名なTHE BOOMの有名な「島唄」。ボーカルの宮沢和史さんが勧める本だった。宮沢さんは、ブラジルが大好きな人だった。
ブラジルの広大な農地でコーヒーを生産すれば、お金がたくさん手に入る。国土の狭い日本では仕事がない。コーヒーは金の成る木と言われた。家族を養うために、故郷に錦を飾るために“移民”となろう。
政府も移住斡旋会社も盛んに海外移住を奨励した。誇張された広告で、貧困に苦しむ人々を煽った。それに乗せられ意気揚々と移民船に乗り込み、原生林の地へ飛び込んでいった数多くの日本人たち。
ブラジルへの日本人移住が始まったのは1908年。781人を乗せた移民船・笠戸丸がブラジルのサントス港に上陸した。
しかし、彼らを待っていたのは奴隷と変わらない劣悪な環境、原生林、風土病、雇用主たちの荒い扱い…
意志半ばにして命を落とした移民たち。耐えるに耐えられず国内・国外へ逃亡した移民たち。移住地でパスポートを取り上げられ、帰国することさえ許されなかった彼ら。
移民という言葉も、南米には日系人が150万人以上いることも知らなかった。
ものすごい衝撃だった。
“移民の歴史を自分の体で感じたい”
強く思った。
「南米に行かない理由がなくなった」
日本人は移住地での唯一の娯楽として、野球を楽しんでいた。調べるうちに、南米の野球の歴史と移民の歴史は深い関わりがあることがわかった。私は野球が大好きだ。だったら、野球を切り口に各移住地を訪ねて、移民の人たちに話を聞こう。
“佐藤先生に会えばペルーの野球のことを教えてもらえるかもしれない”
「甲子園の心を求めて」のファンでもあった私は、佐藤先生に会う機会を求め、手紙を綴った。ポストに投函して4日後、すぐに返事が届いた。
「冠省 お手紙うれしく拝見いたしました。私にできることでしたら、お役に立ちたいと存じます。時間をとってお話しましょう」
2009年2月、先生に会うことができた。
当日、先生は過去にペルーへ野球を教えに行っていた人を紹介してくれた。Tさん(44)とKさん(32)である。
先生からの手紙には『グラシアス・ペルー~海を越えたキャッチボール~』(ペルー野球を支援する会・編 2004年発行)が同封されており、この冊子で二人とも文章を綴っていたため、Tさん、Kさんのことを予め知ることができていた。
ペルー野球を支援する会とは、1995年にペルーの野球発展を支援する目的で結成された組織のこと。ペルーに野球指導者を派遣していた佐藤道輔野球基金「民間協力隊」が前身である。現地野球連盟とのキャッチボールをモットーに、野球指導者派遣事業のほか、来日するペルー少年野球チームの受け入れ、ペルー人留学生への支援、野球道具の寄付、交流イベント活動などを展開している。野球だけでなく、ペルー国内の孤児院への支援活動も行っているという。
先生は定年後もずっと、ペルーとの交流を大切に続けていたのだ。
1984年に青年海外協力隊の初代野球隊員としてペルーに赴任した大森雅人さん(50)がいる。大森さんは隊員時代に出会ったペルー人と結婚し、幼稚園経営をしながら今もペルーで暮らしている。大森さんのすぐあとに協力隊として派遣されたTさんは言う。
「大森君に会ってきたらいいよ。あと、国弘(大森さんの交替野球隊員だった櫻井国弘さん)はエクアドルにいるから、連絡をとって国弘にも会ってくるといい。エクアドルとペルーは隣国だから」
佐藤先生が言ってくれる。「いろんな人に会って話を聞いてきなさい」と。
Kさんは1998年に一年間ペルーで野球を指導したのち、家業の畳店を継いだ。休日は地元の子どもたちに野球を教えているKさんに、先生が力強く言った。
「K、いい野球を子どもたちに教えなさいね」
「はい!!」
TさんもKさんも佐藤先生を心から尊敬している。野球が大好き、ペルーが大好きということがひしひしと伝わってきた。気づけば会合は4時間に及んでいた。
「向田さんが南米に行くとき、壮行会しようね」
店は二軒はしごした。一軒目、“さ、次行こう”と先生がスッと席を立って支払を済ませた。二軒目は先生が席を立つ前に“僕たちが!”とTさん、Kさんが先生を止める。だが、先生は二人を制止してレジに向かう。
「先生、やめてください!!」
何度も言うのに、先生は席に戻らない。
「先生、今度ご自宅にお金をもらいに伺いますから!」
Tさんがそこまで言っても、結局、先生のごちそうになってしまった。私はただ恐縮しているしかなかったが、3人の野球を通した心のつながりが、とてもあたたかいことを知った。
いや、3人だけでなく、ペルー野球を支援する会の人たちみんながそうなのだろう。
野球の楽しさ、素晴らしさを伝えるために、海を越えた人たちがいた。
南米に行かない理由がなくなった。
大森さんにも会ってみたい。ペルー野球と先生の軌跡を追ってみたい。すでに、南米に行くことを決めていたのだが、思わぬ訃報が届いた。佐藤先生が、2009年6月16日、亡くなってしまったのだ。
ペルーへ行くことにとてつもない不安を抱いた。まだ大森さんの連絡先はわからないし、TさんやKさんら、支援する会の人たちがいかに悲しんでいることか。そこに私が足を踏み入れていいものなのか。傷を深めることにならないだろうか。
悩んでいても何も始まらない。縁がなければ出会わない。亡くなる前に佐藤先生に出会えたのは、何らかの縁があったからだ。
そう思い、訃報から一週間後、Kさんに手紙を書いた。数日後、Kさんからメールが届く。
「あまりに突然のことで処理不能の状態です。ですが、先生の野球を継承していくことが私の使命だと思います。協力できることがあれば何でもしますので、遠慮なく言ってください」
Kさんが大森さんに連絡を取ってくれた。不安は不安のままであるが、私の思いは揺らぎなかった。
先生の軌跡も辿って、南米を歩く。移民の歴史を自分の体で感じてくる。
2009年8月末、仕事を辞め、9月13日にペルーの首都・リマへ降り立った。
佐藤先生の縁を頼りにペルーから入り、そこからボリビアやアルゼンチン、パラグアイ、ブラジルにある各移住地を訪ねる予定だ。帰国は半年後、ブラジル・サンパウロから。