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PASSION ボリビアと日本人移民

 ボリビアの首都・ラパスに到着した翌日、私は香織さんと宿泊していた宿を出ることにした。ボリビアの野球について調べていたときに紹介してもらっていた人がいた。ラパスで「一番」という宿を経営している日本人の南雲謙太郎さんだ。メールで連絡を取ってみると、すぐに返信があった。
「当地も日本人会の中に野球部のコンドルチームというのがあり、現在、私の息子の広見(ひろみ)もメンバーで頑張っています。歴史あるチームで、必要であれば色んな人にお話が聞けると思います。ボリビアに入る日が確定しましたら連絡ください」
 リマを発つ前、ラパスに入る日を連絡しておいた。

 ボリビアと日本人移民

 1899年にペルーへ移住するために船に乗った790人。そこからボリビアへ再移住した人たちが、ボリビアの日本人移民の歴史の一ページとなった。
ペルーでの生活はあまりに辛く、予想や期待とはかけ離れていた。そこで彼らは4000m以上ものアンデス山脈を越え、ボリビアにやって来たのだ。
当時、アマゾン一帯はゴム景気で沸いていた。ボリビア北部のベニ県に91名の日本人が到着したのは1899年9月のことだという。ペルーへの移民開始からわずか5ヶ月後のことだ。
 その後もゴム景気の影響で、1918年頃までに800人以上がボリビアに入ったとされている。やがて東南アジアでゴムが採取できるようになると、ゴム景気は衰退していった。それにつれ、ラパスに転住する人や他の国に転住する日本人が増えていった。
 1922年にラパスで日本人会が結成されている。都市で商売に成功した人たちが、外から人を呼び寄せる形でラパスでの日本人も増えていくことになる。1940年には会員が227名いたという。
太平洋戦争の勃発により1942年、日本とボリビアは国交断絶。1944年にはラパス市在住の日本人29人が北米に強制収容されている。翌年、日本人会も活動停止となった。
 戦後、日本人会の復活とともにコンドルチームが結成されたのは1953年のことだ。みんなが集まり、みんなで楽しめる娯楽として、野球とソフトボールがラパスで始まったのだった。
ボリビアに日系人が多く集まっている場所は、首都・ラパスと、ボリビア第二の都市・サンタクルスである。サンタクルス近郊には、サンファンとコロニア・オキナワという二つの日本人移住地がある。

 ホテル「一番」に着くと、オーナーの息子である広見さん(27)が受付をしてくれた。旅の目的を伝えると
「お父さんから聞いています。僕も野球やっていますよ。野球、好きです」
しばらくして、オーナー・南雲謙太郎さん(61)が買い物から帰ってきた。南雲さんの育ちは長崎県・軍艦島(端島)だ。炭鉱で有名な地だが、技術発展などで炭鉱業に陰りが出ると、物好きな謙太郎さんの父が移住を決意。家族とともに1962年にボリビアへ。向かった先はサンファン移住地。そこから幾つかの職を経て、2002年に一番を開業したという。
 部屋を案内してもらったあと、香織さんとランチやお茶を楽しみ、香織さんと別れたのだった。
 香織さんと一緒だったことで、どれだけ安心できた数日間を過ごせたことか。感謝だった。寂しいが、私は旅の目的を果たしていかなければ。
 
 ホテル「一番」の部屋で過ごしていた夜、部屋の電話が鳴った。
 「フォルクローレを聞きに行こうと思うのですが、一緒に行きませんか?」
 フォルクローレとは南米の民族音楽のことだ。大阪と埼玉出身だという40代の女性二人組がライブに誘ってくれたのである。
 フォルクローレのライブが行われる会場はオープンしたばかりのレストラン。ラパスで音楽活動をしている日本人の秋元広行さん(31)が所属するグループのライブだという。
 ライブが始まるまで、秋元さんとテーブルを共にして、食事を楽しんだ。
場がすっかり溶けた一時間後、ライブ開始。
 秋元さんがギターを持ち、ボリビア人の仲間とともに歌いだす。哀愁あるケーナの音色、心地よいギターの音色、情緒ある歌声が響き渡った。
秋元さんのソロタイムでは、ギター一本で沖縄の歌が披露された。沖縄音楽の「花」「涙そうそう」「島唄」だ。秋元さんによれば、沖縄音楽は南米でも喜ばれるらしい。心地よい音色と歌声に、私も自然と口ずさんでいた。
23時過ぎ、宿に戻ると、広見さんが閉じたシャッターを開けてくれた。レセプションにあるテレビにはワールドシリーズの中継が映っていた。今宵は優勝決定戦。ヤンキースの松井秀喜が出場していて、広見さんは松井の大ファンだ。私も広見さんの隣に座ってヤンキースの応援をした。
 南雲さんが球友を紹介してくれていた。明日からは話を聞きに会いに行こう。

 志賀恒夫さん(63)は1946年生まれ、東京都出身だ。志賀さんが12歳のとき、家族でサンファン移住地に入植したという。

小学校3年生くらいからソフトボールと野球をやっていて、家から近い野球グランドによく行っていた。周りの友達も野球をしていて、学校の先生も「やれ、やれ」と野球をしこんでくれた。
 移住した当時、サンファンには野球はなかった。ボールは日本から持ってきていたから木の壁にボールぶつけてひとりで練習していたよ。学校もない移住一年目はキャッチボールもできなかったが、翌年の学校設立とともに野球をやる仲間も自然と集まった。日本で野球経験がある子どもが多く、みんな練習熱心だった。
 1964年、ラパスに転住した後、コンドルチームに所属して土日を中心に野球の練習をしていた。1995年頃までは、パラグアイ、ボリビア、アルゼンチンの日系人による南米選手権が行われ、ボリビア内でもラパス、サンタクルス、サンファン、オキナワの四地区で優勝を競う大会があったほど、野球は盛んだったという。


そんな志賀さんは58歳までコンドルチームの現役だった。視力や体力の衰えを感じて引退するも、野球好きは今でも変わらない。
 ワールドシリーズ決勝戦は、夜中までテレビにかじりついていたという。
 甲子園の準決勝、決勝もNHKで欠かさず見るし、ドラフト会議もチェックする。日本にいる一人息子は巨人ファン。毎年、選手名鑑を送ってもらっているという。現役を引退しても、志賀さんにとって野球はいつもそばにあるものなのだ。
 話を聞き終えたあと、私は志賀さんの営む時計屋からラパスにある日本人会館へ向かった。現役時にもらったトロフィーなどが保管されているから見せてもらったらいいと、志賀さんが日本人会に連絡をしてくれたのだ。

会館には、トロフィー、カップ、盾、大会記念旗がぎっしりとショーウィンドウに飾られていた。日本人が南米で築いた野球の歴史を伝えていた。
 
 翌日、話を聞かせてもらった田中清彦さん(64)の自宅はラパス中心部から約10キロ離れたカラコト地区にあった。
1945年、大分県生まれ。神戸港を出て家族でボリビアへ向かったのは1955年、10歳のとき。目的地は志賀さんと同じくサンファン移住地だった。
切り倒した株があり、周辺は煙がモクモク燻っていた。開拓一年目に入植した田中さん一家。サンファンはまったくの原生林と荒野だった。蛇はどこから出てくるのか、インディアンの槍がどこから飛んでくるドキドキしていたのを覚えているという。
子どもだったから、親たちの苦労はわからなかった。日本を出たときも、家族で外国に遠足に行くという感覚だった。
 入植して4年目に野球が始まった。道具は野球好きな人が日本から持ってきていた。学校ができても勉強はそっちのけ。朝から晩まで野球ばかり。だとしても、校長先生は怒らなかった。「勉強は大切だけど、移民は体づくりが大切だぞ」とむしろ応援してくれた。
 野球が盛んだった時代、西川区、中央区といったように、サンファン内で区ごとの対抗戦があった。入植祭などのイベントには必ず野球の試合が組まれていた。勉強しないであれだけ野球をやっていたら強くなるのは当たり前。サンファンは強かった。
 高校卒業後、田中さんはラパスへ転住。サンファン高校を卒業してラパスに出た若者が多いから、今度はラパスが強くなったという。
志賀さんはいいピッチャーだった。骨が折れても自分が投げたいからガマンして、投げていたこともあるかもしれない。
 「日本人会に飾られているトロフィーは、ほとんどが志賀さんと僕なんかで獲ったんじゃないかと思う。そのころ、ラパスにはベネズエラの留学生チームやアメリカのチーム、ボリビアの警察学校のチームもあった。彼らは野球が体育の試験科目になっていて、勝たないと点数がもらえないから必死だった。でも、コンドルも負けなかったよ」


 40歳には野球もソフトボールも現役引退したが、野球のことは常に気にかけている田中さん。
 ラパスでの野球熱が冷めてきてしまっていることを残念がる。野球専用グランドを手に入れたいし、また野球を盛り上げてもみたい。個人プレーでは、こういうことはできないから仲間に声をかけている。もっとまとまれる環境づくりが日系人には必要だね。ボリビア内での四地区大会も復活させたいという。
「松井の活躍のニュースは嬉しかったし、野球を一緒にやっていた仲間は今でも大切だよ」

※トップの写真は、ホテル一番での朝食。朝食付きのホテルで、毎朝同じメニューだったが、栄養たっぷりで、「朝が来るのが楽しみになっていた」。

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