PASSION 移民に宿る、甲子園の心
野球の喜び
1968年に愛媛から家族でイグアスに移住してきた濃藤菊忍さん(62)と、パラグアイ最初の移住地であるラ・コメルナ生まれの関明節さん(58)に、パラグアイで過ごす最後の晩に話を聞くことができた。
濃藤さんが言う。
「僕が移住してきた時は20人くらいのメンバーが、毎日午後に野球の練習をしていたね。移住区内でもA地区とか、地区ごとに分かれてチームを作って。そこから選抜チームを結成して、イグアスチーム、ピラポチーム、エンカルナシオンチーム、アスンシオンチームなどで年に一度、全パラグアイ野球大会が行われるようになっていった。
野球を続けていくにあたって苦労したのは資金面だね。大会を開催するのには、移動費や食事代など、お金がかかる。日本と違って援助がないものだから、すべて自分たちで用意しなければならなかったんだよ。
クリスマスにはダンスパーティーを開催して入場料をもらったり、土地を借りて大豆を植えたり。野球をやっている仲間で協力して、やりくりをしていった。
大会に出場するときはバスを貸し切って12時間、13時間。でこぼこ道を走っていったよ。地元で大会が行われるときは寄付金を集めるために各方面に協力を仰いだよ。とにかく自分たちで何とかしなければいけなかったから。
野球道具もボールの皮が切れてしまったら縫って直した。グローブの修理は牛の皮で。日本からボールを取り寄せるとしたら現地で買うより50倍くらいしてしまう。バットは木を切り倒して作ったね。
僕は野球が好きだった。家と野球場は12キロくらい離れていたけど走ってグラウンドまで通っていた。仕事だけではやっていられない。野球が楽しみで仕方なかった。
遠征のとき試合に負けると、涙が出るほど悔しかったんだよ」
関さんは70年代にやっていた南米選手権の参加旗をいくつか持参して見せてくれた。
「野球の話って聞いたからさ、慌てて見つけてきたよ」
大切な思い出の品である。
お金がない。食べる物もない。唯一の楽しみは野球だった。
「現代は欲しいものがすぐ手に入る時代でしょ。物があって当たり前の時代。我慢を知らない今の日本が心配になる。ここではね、結婚式や葬式も地域総出。どぶろく、ぶどう酒、いなり寿司。地元で作ったものであふれているよ。
そうそう、何年か前に日本に行ったときのことだよ。駅で電車の切符を買おうとして、窓口で切符をくださいって言った。そしたら“自販機があるでしょ”って、鼻と目でツンとされた。僕は自販機が何だかわからなかったのに、冷たい態度を取られてしまった」
ペルーでも、ボリビアでも、アルゼンチンでも言われたことを思い出す。
“今の日本は人に対して冷たい”
“物資は豊かな国だけど、心は貧しい”
電車で座っているときに、高齢者が乗ってきたら素直に譲れる自分だろうか。
人に道を聞かれたとき、どこまで相手に親身になって答えているだろうか。
“日本での私”を思うと反省が多い。
これまで、ペルー・ボリビア・アルゼンチン・ブラジル・パラグアイで日系社会の野球を探ってきた。野球の歴史と移民の歴史は重なり合っていた。
道具は頭を使って身の回りにあるもので代用したり、手づくりしたり。資金集めに至っては、仲間同士で協力しながら足で稼いだ。苦労していることに変わりはない。だが、その先には野球が生んだ笑顔と団結心があった。開拓だけの日々に唯一の楽しみは野球だった。白球にロマンを感じて、青春をぶつけた若者たち。南米に甲子園はないけれど、甲子園の心は移住者たちに宿っていた。
移住地の荒々しい大地が甲子園。精神を鍛え、仲間を思いやり、汗と笑いに満ちていた場所。
佐藤先生は言っていた。
「野球のよろこびは、より人間的に生きていくための力であり、生きることのよろこびでもある」
移住した当初の暮らしと現在、天と地の差があるほど違うはずだが、色褪せることのない思い出は、未来を支える糧となる。後輩世代に大切なことを伝えられる。
「野球に夢中だったんだよ、あの頃は」
二人の言葉が胸に響いた。