PASSION ウルキーサ移住地で感じた「日本」
ブエノスアイレスでお世話になったのが、文野旅行社社長・文野和義さん(61)だ。日本を出発する前、アルゼンチンの野球事情を調べていた時にメールで問い合わせた人が紹介してくれたのが文野さんだった。文野さんには予めブエノスアイレスへの到着日も知らせておいた。
文野旅行社は、泊まっていた日本人宿から徒歩2分。
「あー!よく来たね!そろそろ来るかなと思っていたんですよ」
ブエノスアイレスに到着して数日後、高速で一時間ほどのラプラタ市にある日本人移住地・ウルキーサに文野さんが連れて行ってくれた。
のどかな田園風景が広がる場所だった。
ウルキーサ移住地に日本人が入ったのは1957年。文野さん一家はパラグアイからの再移住で68年にウルキーサにやって来たという。
ラプラタ日本語学校の駐車場の横には野球グラウンドがあり、文野さんが懐かしそうにボールを投げるポーズをする。
「ここでよく野球をやっていましたよ。レフトはこのへんを守っていたな」
日本語学校のすぐそばにある文野さんのおじの家には、敷地内にパターゴルフ場があり、10人以上の日本人がプレーしていた。年代は60、70代であろう。土曜日にはこうして集まり、ゴルフを楽しんでいるそうだ。
彼らがちょうど休憩に入るところだった。
「どうぞ、どうぞ」
小さな白い建物に案内される。入口の手前では梅干しがズラッと天日干しされている。建物の中には肉を焼くための窯があり、テーブルにはワカメご飯のおにぎり、お稲荷、どら焼き、きゅうりのおしんこが置かれていた。緑茶が注がれ、それらを頂く。
「日本だ…」
私は思わずつぶやいてしまった。みんなが笑う。
文野さんの同級生で、文野さんのことを私に紹介してくれた男性・中島さん、かつて野球を一緒にしていた仲間もいる。
「野球は命の次に大切だったよな」
「学校が終わったらずっと野球。家と学校が5キロくらい離れていても関係なかった。野球をやらなったときなんて、ホントに大雨の時くらいだったよ」
「グローブを忘れたらもう大変。家まで戻って…。忘れ物なんてできなかったな」
中島さんもパラグアイからの再移住者だ。
「寝巻とバット、グローブだけをスーツケースに入れてパラグアイに行ったもんさ。原生林から、そう、みかんの木からバッドを作ったな。あのころが一番楽しかった…」
「ユニフォームなんてないから、手ぬぐいを頭に巻いて野球をやっていたね。アッハッハ」
いつの間にか、野球談議の輪ができていた。
通常ならば土曜の午後は、日本語学校で野球の練習があるそうなのだが、今日は卒業式と学芸会が催されている。文野さんと見学することにした。
劇や合唱、合奏が次々と披露される。「ドレミの歌」や「大きな古時計」「犬のおまわりさん」など、懐かしいものだった。
学芸会には文野さんの孫であるマサキ君も出演していた。学芸会終了後、マサキ君を家まで送る。
「じーちゃん、Vamos!」(じーちゃん、行こう)
日本語とスペイン語のミックスだった。
ブエノスアイレスに戻るべく、再び高速道路に乗る。オレンジ色のまんまるい太陽が、アルゼンチンの広大な大地に落ちていった。