PASSION 第四章 祈り、耕し、芸術する 【ブラジル ユバ農場】
ブラジル入国
クリスマスと年末年始はブラジルにある日本人移住地・ユバ農場で過ごすことに決めていた。
ブラジルの大都市・サンパウロのグアルーリョス国際空港に着いたのは12月20日、18時すぎだった。
「空港から市内に行く際は、十分注意のこと。金持ちと思われている日系人は狙われやすい」
そんな情報も得ていたため、私は緊張していた。拳銃を使った犯罪が多いブラジル。体格のいい黒人も目立ち、女性も身長が高い。公用語は南米唯一のポルトガル語。これまで訪ねた南米の国とは明らかに空気が違う。
約8キロ離れたサンパウロ市内へ行く手段として、フレスコンという空港バスを使うことにした。15ドルと安くはないが、強盗には合いたくない。ローカルバスは時間がかかるし、大荷物で乗り込むには危険かもしれない。
しかし、フレスコンの出発が遅れてしまった。空港を出たのは20時。ユバ農場へはバハフンダというバスターミナルから出ているペレイラバレット行き・21時半発のバスに乗ればいいとのことだった。
空港から市内までは約30分と聞いていたのだが、幹線道路は大渋滞。ちっとも前には進まずに、時間だけが過ぎていった。
バハフンダに到着したのは21時半。クリスマスに近いハイシーズンとあってたくさんのバスが停車しており、ターミナルに着いてもバスを降りることができない。バスを降りることができたのは21時50分。ペレイラべレット行きのバスの出発時間はとっくに過ぎてしまっていた。
臨時便があるかもしれないし、ないとしても、明日には向かえるようにチケットだけでも買っておきたい。目当てのバス会社ブースを探して列に並んだ。22時近いというのにチケットを求める人があちこちで行列をつくっていた。
「ポルトガル語、大丈夫だろうか」
南米唯一のポルトガル語圏。ユバ農場までの行き方をメモしたノートを用意した。これを見せて伝えよう。
ノートを見せて、ここに行きたいと伝えるが、ぺレイラバレット行きのバスは、今日はもうないとのことだった。すると、後ろに並んでいた男性が英語で話しかけてきてくれた。
ミランドポリス行きのバスが22時10分にあると教えてくれる。ベレイラバレット行きのバスに乗っても、ユバに行くにはミランドポリスで乗り換える必要がある。それならば、これに乗ってもいいはずだ。
腕時計を見る。22時3分。早くしなきゃ。バスの出発するプラットフォームの番号を教えてくれるが、それはどこだ。
「僕が案内しますよ」
日本語を話す男性が突然現れた。
「あなたはどこに行くんですか?」
「ユバ農場に行くんです」
「僕はユバで育ちました」
こんなことが…
あるのである。彼の案内により、出発5分前にバスに乗ることができたのだった。
アリアンサとユバ農場
ユバ農場は、サンパウロから北西に約600キロ離れたミランドポリス郡・アリアンサ村にある。アリアンサ村は1924年に日本人の手によって開かれた移住地で、アリアンサとは協力、和合といった意味をもつ。
アリアンサは他の移住地とは全く異なる。移民が流行していた当時、移民を募っていたのは政府や移民斡旋会社。移民はいわゆるデカセギで、お金を貯めたら日本に帰るという前提があったとは周知のこと。
しかし、アリアンサ建設の先頭を切った日本力行会の永田稠会長、輪湖俊午郎、北原地価造は「移住者をブラジル社会の担い手とするために、定住を目的とし、お互いが協力し合う理想の村をつくろう」と考えていた。政府に頼らず移住地開拓のための費用は自分たちだけで準備した。そうした経緯で拓かれたのがアリアンサ村である。
そんなアリアンサのことを知った弓場勇は、1926年19歳の時に一家10人を連れてブラジルへやって来た。ブラジルの広大な原生林のエネルギーに感動し「このブラジルに、日本人の特徴を生かした新しい文化を創造しよう」と決意した。
1933年、弓場は同じ志を抱く仲間たちとともに「耕し、祈り、芸術する」を理念とした共同農場の建設に取りかかる。そうしてできたのがユバ農場だ。
去る者は追わず、来る者は拒まず。
農場には、農場員を拘束する規約は一切なかった。働くことを強制することもしなかった。ポルトガル語ももちろん皆話せるが、日常生活では日本語が当たり前。「日本人」としてのアイデンティティを抱き、「日本人」としてのコミュニティを守り続けているのである。
旅行者の間でも、ユバ農場は“学ぶことが多い”と有名な場所だった。ここで農作業を手伝い、自分のできることをする代わりに食費や宿泊費などもかからない。
毎年クリスマスはユバの芸術活動の一年間の集大成として、クリスマス講演が農場内で行われるという。紅白歌合戦や餅つきなども行われると聞き、私はクリスマスと年末年始をユバで過ごそうと決めていたのだ。
また、弓場勇さんはブラジル野球の草分け的存在で、野球を心から愛し、アリアンサチームを自ら率いて、ブラジル大会で優勝もするほどの腕だったという。ユバでは今でも野球好きな人が多いとも聞いていた。
現在のアリアンサは三つの地区に分かれていて、150ほどの日系家族が生活を営んでいる。第一アリアンサにあるユバ農場では21家族・60人名ほどが共同生活を送っている。