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PASSION ペルーと移民 帰来二世の人生

 ペルーに着いて2日目。現地のお金をATMで下ろそうとするが、カードを食われてしまった私。途方に暮れる…。

 Tさんが銀行に再び電話をかけてくれるが、カードを取りだすには時間がかかると言われてしまったという。悪用される可能性もあるからカードを止めたほうが良いとTさん。
 日本の銀行に電話をかけ、カードを止め、私の親からTさんの銀行口座へ20万円分のドルを海外送金してもらうことで、いったん旅の資金を確保したのだった。

 翌日はTさん夫妻は仕事に出ていてマンションには私ひとりだった。13時過ぎ、ようやく出かける決心をした。外に出るのが怖くて仕方ないが、出なければ何も始まらない。バッグに地図とスペイン語の辞書を入れた。
 昨日乗ったコンビと同じ色のコンビをつかまえ日秘に向かった。見覚えのある場所を通りホッとする。言葉がわからない海外で、地理もわからない。これだけ不安なことはない。
 昨日は穏やかな空だったが、今日はどんより曇り空。そんな空が心に寂しさを感じさせた。
 乗ったコンビがいきなりパンクし、別のコンビに乗り換えるというハプニングがあったものの、何とか日秘に着き、2階にある日本人移住資料館に行ってみた。
 「こんにちは」
 館内にいた女性はペルー生まれの二世の館長だった。
 「ペルーの野球と移民の歴史を調べるために日本から来た者です」
 「そうですか、日本から。ようこそペルーへいらっしゃいました」

 ペルーと日本人移民、帰来二世の人生

 日本人の計画的南米移住は1899年、ペルーから始まった。海外移住と言えば、主にサトウキビ栽培に従事したハワイがその歴史の最初だが、アメリカ大陸へも次々と日本人が仕事を求めて入国した。結果、アメリカ人の仕事を奪うことになってしまい、日本人の排斥運動が起こる。そこで次なる行き先が南米大陸になったのだ。  
 ペルーは綿や砂糖などを栽培する労働力を大量に欲していた。当時、日本は近代化が進んでいたものの、農村では高い税金が農民を苦しめていた。都会へ行っても国土の狭い日本では仕事がない。
ペルーの事情、日本の事情。ペルーは労働力が欲しい。日本は労働力が余っている。お互いの問題解決の糸口が「移民政策」となったのである。
 1899年2月27日、790人の移民を乗せた佐倉丸が横浜を出港し、4月3日、ペルー・カヤオ港に到着した。
 彼らは意気揚々とサトウキビ耕地に入ったが、奴隷同様の重労働が待っていた。住居は馬小屋ほどしかないうえに、スペイン語が話せないことが農園主との意思不通を生み、多大なストレスを招いた。暴動も起きたという。マラリア、赤痢、瘍チフスなどの病が次々と移民を襲った。はじめの一年半で100人以上の移民が死亡している。日本政府は移民に対して大した改善策も講じないままだったが、彼らは真面目に働いて、少しずつ現地の生活に慣れていった。成功者も現れ始め、しだいに都市部へ進出し、日本人はペルーに定着していった。
 1923年に契約移民が廃止されるまで、1万8164人の日本人がペルーへ移民として入国しているという。

 資料館にはこうした歴史がパネルや移民たちの遺品・寄贈品とともにわかりやすく詳細に展示されている。資料館を見学したあと、図書室へ行ってみた。Tさんが紹介してくれた添田さん(77)から話を聞いた。

 添田さんは1932年、ペルー中部にある高原地域・ワンカイヨで生まれた。父は福島、母は熊本出身で、兄がひとりの4人家族だ。
添田さんの父は移住先の耕地を脱走したのち、ドイツ系移民の多いまちの家で、給仕として働き始める。その家の娘と恋仲になるが、主人は二人を許さなかった。駆け落ちを図るも、あとを追ってきた警官に誘拐罪で捕まってしまう。リマに送還される途中、「用を足したい」と脇道に入り逃亡した。そこはジャングルの真っただ中。辿り着いたのが日本人移民の多いワンカイヨだった。
 ワンカイヨで腰を落ち着かせた父は、仲間とともにコーヒーショップの経営に乗り出す。貯蓄ができ、一度日本に帰国するも、日本には仕事がなかった。再びペルーへ。
 父が妻となる女性と出会ったのもこの頃だったという。彼女はずっと音沙汰のない兄を捜しにペルーに来ていた。兄を発見できたが、彼女と同じ熊本出身者が「行って欲しい場所がある」とワンカイヨに行くことを勧めた。初期の移民は独身男性が多かったという。彼女は独身だった。
背は高いが痩せていて色白だった父を見て、彼女は父を結核だと勘違いした。
 「これはひどい結核の人だ。世話してあげなければ」
 彼女がワンカイヨに留まったことで二人は結ばれた。
 1939年4月、添田さんはリマ日本人小学校(リマ日校)に入学。移民の親は、子どもたちが日本に戻った時に困らないようにと教育に力を注いだという。移住地では学校が最初に建設されていることが多いのもその表れだ。
 日本人がペルーに移住して20年以上。移民たちは財産を蓄え都市部に進出するようになる。農業をあきらめた移民も都市部で床屋や洗濯屋などを営むようになり、リマでは日系の商業が発展していった。日系社会が豊かになっていく一方で、それを快く思わないペルー人は多かったという。
 1940年5月13日、添田さんが7歳のときのことだ。日本人同士の争いに巻き込まれたペルー人が死亡するという事件が発端となり、日本人に対する不満が爆発した。排日運動である。
 授業中、急にチャイムが鳴り、校庭に集合させられた。
 「もう授業はできないから帰りなさい」
 車に乗せられ、急いで帰宅させられた。
 日本人だとわかると石が投げられた。
 帰宅すれば今度は家の中にいたのでは危険と、ぶどう畑のなかへ避難した。恐怖で歯がガチガチ震えた。養鶏場からは“助けてー、助けてー”の声がこだましていた。
 ぶどう畑の近くにはイタリア系家族が住んでおり、「そんなところで寝てないで」と家の中に入れてくれたのが救いになった。
 暴徒となって襲ってくるペルー人。家のなかにあるものを根こそぎ―便器までも持っていってしまうこともあった。
 資料によれば暴動による被害は600件あまり。再起不能の54家族316人は帰国せざるを得なかったという。
 いずれは日本に帰ることが前提だったものの、家族で帰国できるほどの財産はなかった園田さん一家。教育だけは日本でと、両親に帰国を勧められた。1940年7月11日、平洋丸に乗って兄と二人で初めての日本へ向かった。
 横浜港に着くと写真を頼りに親戚を捜し、父の故郷である福島へ。トイレは和式で屋外にあった。肥料に使う糞の匂いは悪臭だった。日本は真夏で蛙のゲロゲロと鳴く声がやまない。ペルーとの違い、習慣の違いに驚いた。冬は寒さでしもやけができた。
 辛い。
 「兄さん、ペルーへ帰ろう」
 泣いて、兄を困らせたことも何度かあったという。
 学校に入学すれば、いじめを受けた。日本の子どもたちはみな着物で登校するのに自分はリマ日校の制服だった。めずらしいと見世物にされる。1940年といえば軍国主義の日本。鬼畜米英とさかんに叫ばれていた時期だ。北米も南米も区別がなく“アメリカ”なのだ。添田さんはその“アメリカ”から来たために、いじめの対象になってしまった。
 25歳、1957年にペルーに戻った。
 日本にいる間にスペイン語はすっかり忘れてしまっていた。いじめも受けたことで意識的に話さないようにしていたためだ。帰国してから5年ほど、スペイン語教室に通っていた。ペルーで生まれているのに、日本へ行った。ペルーへ帰ってくれば、スペイン語を話せない。生意気だと揶揄されたこともあったという。添田さんのような二世のことを「帰来二世」と呼ぶ。帰来とは、嫌いとの意味も含んでいると聞いた。
 両親の営んでいた花屋を手伝いながら、やがて独立、結婚。子ども3人を育てあげ、ゴルフを楽しむ日々だったが、ゴルフ帰りに飲酒運転をして大事故を起こしてしまう。シートベルトをしていなかったために重体だった。   3ヶ月間寝たきりで、さらには膀胱がんを患った。がん治療を終えてからは 家でのんびり過ごしていたのだが、息子が言った。
「おやじは本を読むのが好きなのだから、日秘で働いたらどうなんだ」
 息子の勧めで、日秘の図書室のボランティアとなり今に至る。週に2回、仲間とゴルフを楽しむが、それ以外は図書室に通う日々。受付業務、本の整理、来室者の対応など忙しそうだ。スペイン語、日本語を上使いこなし業務に当たる。
 「今は毎日が楽しいね。図書室に来て、ゴルフに行って。3ヶ月に一度みんなで食事をするために、ゴルフでは毎回積み立てをするんだよ。ペルーの日系人は何があってもまとまっていける」
 

  私は、リマに滞在中、日秘の食堂をしょっちゅう利用していた。ここでは、メヌーという日替わりランチが安く食べられ、沖縄そばといった日本食もあったのだ。そして、図書室にも頻繁に顔を出した。添田さんは図書室で会うたびに、優しい笑顔を見せてくれた。白髪としわ、笑顔の年輪。様々な壁を乗り越えてきた人だから、人を見る目がとても穏やかだった。



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