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PASSION サンファン移住地「古き良き日本」

~ちゃんぽんと、味わいのある場所~

 サンファン移住地の始まりは次の通り。
 戦後、製糖工場を経営していた西川利通が、サトウキビの栽培と製糖工場の建設を目的にボリビアに進出する計画をたてる。1955年、西川氏の計画に賛同した14家族88名がサンファン移住地に入植したことが事の始まりだ。
 2年後の1957年には、日本とボリビアの政府間で交わされた移住協定による第一次計画移住者159名が到着した。しかし、この年は異常な雨が降ったうえに熱帯とは思えない寒波が襲った。あるのは寒さと原生林。作物などできるのか。
 移住者たちは送りだしのみに懸命な日本海外協会連合会(JICAの前身)や政府に不審を募らせ、日本の新聞と政党に“アメオオク ミチナク エイノウ フカノウ”と後続移住者の中止を訴えている。
 それでも計画移住者は続々とサンファンに到着し、呼び寄せや単身移住者も含め、1992年までに302家族、計1684名が入植した。
 多大な苦労と犠牲を払い、サンファンはボリビア農業の先進的な役割を果たしてきた。現在は、国内ではかなりのシェアを占める養鶏をはじめ、稲作・大豆・柑橘類・マカダミアナッツなどの多角的経営農業を行っている。日系人の多くは、地主であるという。

サンタクルスから乗合タクシーを乗り継ぎ、無事に到着。
「サンファン移住地」と日本語で書かれたゲートをくぐり少し歩くと、連絡を取っていた伴井さんの勤め先であるサンファン日ボ協会があったのだが、閉まっている。時刻は12時半。昼休みかもしれない。協会の裏にある厨房のような建物に人がいるのが見えたため、声をかける。エプロン姿の女性たちが私に気づく。みな日系人のようだ。事情を話すと伴井さんの携帯電話に連絡をとってくれた。
 「14時から協会は開きます。その時間にまた来てください。お昼ごはんは食べましたか?協会近くにイトウという食堂がありますので、良かったらそちらでどうぞ」


 舗装されていない土の道を歩く。ポツンとボリビア人が歩き、スペイン語の店がある。けだるい午後の雰囲気のなか、「小料理ITO」の錆びた看板を見つけた。「ラーメン」と文字の入った赤ちょうちんがぶら下がっている。小さなドアを開けると中は広く、天井ではファンがくるくる回っていた。乾燥したヤシの葉らしき植物で敷き詰められた天井だ。砂あらしで映りの悪いテレビがあって、NHKを受信している。
 1960年代以降、九州にある炭鉱が次々と閉山された。離職者救済措置として移住が奨励されたため、こぞって九州出身者がサンファンに移住したため、九州出身者が多いのがサンファンの特徴でもある。「一番」の南雲さん一家も同じだ。ここは日系人の46パーセントが長崎出身者とあって、メニューには長崎名物“ちゃんぽん”がある。私が注文したのも、もちろんちゃんぽんだ。


 たっぷりの野菜に、モチモチした麺、優しい味がするスープ。かなり空腹を感じていたため欲張って「大」を選んだら、食べ切れなくなってしまった。
美味しかっただけに惜しいことをした。

 14時、再び協会へ。伴井さんと挨拶を交わすとそのまま会長室に通され、サンファン日ボ協会会長・日比野正靱さん(70)が話をきかせてくれた。

 ここは1955年から移住の歴史が始まった場所。最初は原生林でね、家といえばヤシ葺きで掘立小屋だった。59年頃から青年会が野球を始めて90年くらいまではやっていたね。
 日本でもともと野球好きだった連中が集まって、移住地内で地区大会をやっていた。6チームくらいあったかな。一世がそんなだったから、二世も野球を真似して育ってきた。
 戦時中、日本では剣道、柔道などの武道は規制がかけられていた。アメリカの進駐軍はソフトボールをやっていて、軍隊からもらったスポンジのボールと棒きれを、バット代わりにして遊んでいたよ。僕の場合はそれが野球を始めたきっかけだった。
 サンファンに限らずボリビアでは、60、70年代が、一番野球が盛んな時期だったように思う。一年を通してリーグ戦があって、アメリカの士官学校と試合をやったよ。ラパスのコンドルチームもここに交じっていたね。
 70年代後半になると日本の景気が良くなって、若い世代が都会に出ていった。サンファンも1200人いた人口が、800人をきる状態になってしまい、野球もやる機会が減ってしまった。
 それでは寂しいってことで、10年くらい前に少年野球チームが発足した。サンファンには高校がないから8歳から13歳くらいまでの子どもたち、25名ほどが所属している。
野球をやっていたおじさんたちが仕事の合間を縫って教えているけど、正式なコーチがいないのが悩みだね。私も土曜日は指導しているよ。野球復活の兆しはあるし、ママさんバレーも頑張っている。
 ここでいろんな行事を開催してみんなでワーワー応援できる機会をつくっていかないとね。入植記念祭が毎年行われていて、昼間は運動会、夜は盆踊りで盛り上がるよ。
 
 1939年に岐阜県で生まれ、57年に家族でサンファンに移住した日比野さん。家屋のすべてを日本で売り払うことで、移住のための資金をつくった。移住がうまくいかなくても、日本に帰ることはできなかった。

 開拓わずか2年目のサンファン。まわりはまだまだ原生林。カマヘビがいて、ものすごい数の蚊がいた。黙っていたら腕が真っ黒になるくらいにね。50ヘクタールの土地を無償でくれるというからサンファンに来たけれど、本当に何もなかった。道さえも。
 日本から持ってきた1トン以上の荷物を移住地まで運ばなければならない。人間と馬が通れるくらいの道を拓き、川があれば木を倒して橋をつくった。
当時のおやじたちはすごいと思うよ。ふつうなら、移住を決心する前に現地を確かめるはずなのに、何も調べないでいきなり移住したんだから。
いま、日本人らしさが失われてきているよね。勤勉・勤労、真面目で嘘を言わない。日本人は信用できる民族だから、ボリビアは日本人を受け入れてくれた。
 私たちは道がわからなかったらすぐに聞くんだよ。だけど東京に行ったときにね、通りがかりの人に声をかけたら後ずさりして驚かれたよ。東京の新宿駅で北口に行きたかったけどわからない。聞いてみたら「書いてあるでしょ。その通りに行けばいいでしょ」って指を指すだけ。
 困っている人がいても、声をかけるのは勇気がいることになってしまっている。人情味がなくなってしまっているのか、世知辛い世の中になったのか。
“日本の良き国民性”が薄れてきているのを確かに感じる。「触らぬ神にたたりなし」ってね。国民性がない人々。それはもう、日本人ではない。一体どこの国の人たちなのだろう。

あっという間の2時間だった。間もなく少年野球の練習が始まるそうで、伴井さんが練習場所に案内してくれた。日ボ協会の裏にあるサンファン学園のグラウンドである。サンファン学園は公立認可校として運営され、日本語・スペイン語の両言語教育を全日制で行っている。
 芝生のグラウンドには日系人、ボリビア人の少年たちが15人ほど集まっていた。
 「こんにちは」
 伴井さんと私をみて、自ら挨拶をしてくれた。
全員が揃ったところでキャプテンの号令でグラウンドに一礼。キャプテンは伴井さんの息子である。キャッチボールから始まって、バッティング練習、守備練習。上級生が下級生にルールを教える。
 「もっと右!下がって!!」
 ミスをすれば
 「お前、何様だよー」
 「カッパでいいよ」
 元気な声と笑顔があった。日本語、スペイン語の両方を学習している子どもたち。練習では二ヶ国語が飛び交っている。
 「カブトムシ、見て」
私のそばに寄ってきた3歳くらいの子ども。はじけるような明るい笑顔を持っていた。木にぶらさがったり、虫をつかまえたり、自由に駆けずり回っていた。ここでなら、子どもたちは豊かな自然のなか、のびのびと育っていける。


 「ありがとうございました!」
 練習終了後はグラウンドに向かって再び一礼。
 地球の反対側にある日本人移住地に、野球が好きな子どもたちがいて、自ら練習をやっているのだ。ずっと楽しく野球を続けていってほしい。
 佐藤先生がサンファンの光景を見たら喜ぶに違いない。

 翌日、伴井さんが移住資料館へ連れて行ってくれた。
 資料館のそばには移住50周年を記念して作られた幅17m、高さ3mという大きな碑がある。碑の壁画には移民船の出航、炊きだしをする女性、移住地へ向かう汽車の旅、密林の伐採、牛車を引いての農作業といった移住史の風景が描かれていた。


 土台には1684名・移住者ひとりひとりの名前が刻まれていて、「一番」の南雲謙太郎さんの名前もあった。移住地の過去にあった苦汁の日々。それを超えたから現在のサンファンがある。ズラッと刻まれた名前の数々に、歴史の重みを感じずにはいられない。


 野球場や公園、原生林の保管地区などを案内してもらったあと、サンタクルスの日本食レストランのご主人が訪ねてみなさいとメモしてくれた、米倉伸雄さん(56)の自宅を訪ねた。
米倉さんは1952年に長崎県で生まれ、58年に家族でサンファンに移住した。
 
 当時は原生林でしょ。野球をするとボールが遠くに飛んでしまって、みんなで探して大変だったよ。
 野球道具は後続の移住者に持ってきてもらったもの。
 バレーボールやサッカーボールはサンタクルスに行けば買えたけど、野球道具は売っていない。日本から持ってきたものを大切に扱っていたね。
 野球を始めてからは楽しくて、昼休みになるといつも野球をやっていたよ。グローブを離さなかった。通学も自転車で一時間かかるけど、10キロ以上離れていようが野球は太陽が沈むまでやっていた。帰るときはもう真っ暗でさ。
会長の日比野さんは4時間くらいかけて野球をやりに来ていたよ。
 野球っていうのはチームみんなの連携が大切なスポーツでしょ。よく練習したよ。先輩や先生から「何やってんだ!」とたたかれたこともあった。昔ながらの厳しさがあった。もともと日本で野球をやっていた人たちが中心になっていたから、そこで規律も教えられた。
 高校卒業後はラパスで6年間仕事をしていた。ラパスのチームが強かったのはサンファン出身者が多かったから。問題はラパスに練習する場所がないことだった。地面は石や砂利だらけ。そんな状態だと硬球ボールは糸が切れてしまうから、軟球ボールでやっていたこともあったかな。

 サンファンに戻ってきてからは農業で生計を立ててきたという米倉さん。

 ここに住んで長くなるけど“住めば都“ってね。調味料も自分で作れるし、川で魚を釣れば自然に生活できる。50キロのナマズも釣れるよ。土地だって買い求めればいくらでもあるから。
入植記念祭は昔の仲間もみんなで集まれるのが楽しみだよね。日本に帰りたいとは思わない。NHKが入って10年以上になるけども、ここのお年寄りはスペイン語ができないからNHKばかり見ているよ。日本のニュースには詳しいんだよね。
 一世は戦後の一番苦しいときに移住している。
 「ボリビアに行けば50ヘクタールをタダでもらえる」
これが何よりの魅力だった。でも来てみたら全くの原生林だったんだね。
 当初、日本から来たうちの3分の1くらいの人数しか定着しなかったと思う。他の国に行ったり日本に帰ったり。15周年の頃まではかなりガタガタしていたよ。“今日はナベ売り、明日はカマ売り”なんて言われていたほど。ボリビアを抜け出してアルゼンチンに行った人が多い。アルゼンチンには花卉栽培の仕事があったから。
 それでも今、サンファンでは何不自由なく暮らしている。
 天気さえ良ければ釣り三昧。今は野球はやっていないが、NHKで放送される甲子園は毎年楽しみにしているよ。時差があるから夜中に起きだしてね。みんなキビキビしていて清々しい。高校野球はおもしろい。

 話を聞いて一時間くらい経ったころ、奥さんの艶子さんが手作りの和菓子を出してくれた。話が終わったのは12時近く。
 「田舎料理ですけど、良かったらお昼はウチで食べていきませんか?」
 30分くらい経っただろうか。
 「できました!こちらへどうぞ」
 食卓へ。ターンテーブルの上にごちそうがたっぷり乗っていた。
 「どんどん召し上がってね!!」
 肉野菜炒め、コロッケ、大学芋、唐揚げ、マヨネーズで和えたサラダ、何種類もの漬物、サンファン米に味噌汁、緑茶。
 優しい味、母の味。移住地の力があった。
 食後は羊羹をお茶うけにして3人で話をしていた。
 13時半すぎ、おいとましようと外に出るが雨が降っている。
 「ゆっくりのんびりしていきなさい」
 そんな声は旅人には響くもの。心がつまるくらいに嬉しかった。
 サンファンにも、青年海外協力隊がボランティアでやって来る。米倉さんの家に隊員が滞在したこともあったそうだ。そのときの思い出の写真をみせてくれた。
 「そうよ、あなた今度はボランティアでサンファンにいらっしゃい。ウチに泊まっていたらいいんだから」
 なんて心地の良いひと時だっただろう。雨はほとんど止んでいた。
 艶子さんは旅のお供にと、手作りの和菓子を持たせてくれた。
「旅の安全を毎日祈っていますから」
また会いたい人ができた幸せ、また来たい場所ができた幸せをかみしめていた。

 濃密な時間が流れたサンファンでの滞在。もっとここに居たいと思った。
 “古き良き日本”
 よく言われる言葉だが、サンファンを表現するとしたらこれしか言葉が出てこなかった。
惜しむ気持ちを抑えながらコロニア・オキナワへ向かった。

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