美しい、はうれしい。①
2022年も真ん中に近づいています。
今年の始まりは、我が家は「コロナ騒動」で始まりました。
1月下旬に夫と(7歳)が相次いでコロナ陽性。私は濃厚接触者として、計26日間もの自宅待機を要求され…とても辛い日々を過ごしました。
それゆえ、春は本当に春でした、笑!!
3月下旬、2年数か月ぶりに実家のある埼玉に帰省したのですが、5日間本当に楽しくて。
実家の風景や実家のある街並みが愛しく感じられ、久しぶりに再会した友人などとのおしゃべりもとても充実した感じで…。
コロナ騒動を経験して思ったのが、「コロナを言い訳にしたくない」ってこと。
もちろん周囲への配慮ある行動は大切ですが、時間はどんどん過ぎていくだけ。やりたいことをコロナを理由に諦めたり、停滞させたくないなって。
ガーデニングという趣味が加わった春―視点が変わると世界が変わる 開ける世界
noteでも何回か記事にしている、高松市庵治にある山の風景をひとりでボランティアで耕し続けているオノさん。オノさんがジョウロやスコップを手にして、植物の手入れをしている様子を見続けてきた娘。ゴールデンウイークのとある日、「お花買おう」と、自分のお財布をもって、花屋さんに行きました。そこで幾つか花を買って、自宅の敷地に、花壇を作り始めたのです。私も感化され、種や苗を購入。急に「ガーデニング」が楽しくなり始めたのです。
旅先でも、花を求める。多肉植物を求める。
家族そろった休日、高知へ出かけた際、人で賑わうガーデンショップの前を通り過ぎました。「寄ってみたい!!」と車を停めて、お店の景色を楽しんで、花や多肉植物を買ったのです。
でも…そこで気づくわけですね。“なんにも、知らない”って。たとえば、一年草って?多年草って?とか。カーネーションやバラも咲き終わったけれど、どう剪定すれば、また咲くの?とか。多肉植物だって、どうやって増やすの?メルカリで300円で押し葉や切り葉を購入したはいいけれど、本当に土の上に置いておくだけで芽が出てくるの?
ヒヤシンスの記憶
昔、ペットボトルでヒヤシンスの球根を育て、花をめでていた記憶がよみがえってきました。小学校のころだと思います。育てていたな、と。でも、ホームセンターではヒヤシンスの球根がどこにも見当たりませんでした。似たような花の球根は販売されていたのだけれど。
ただ、こうしてガーデニングや植物に開眼したことで、近所のお庭の様子をよく見るようになった私と娘。「ここのお庭、素敵だよねぇ」と言葉が会話に飛び交うようになったのです。ひとつ新しい世界が開けた感覚になりました。向日葵の種も芽が出て、フタバから次の様相へと順調に育っています。
ランドスケープ
グリーンを見る。小道や路地のガーデニングを見る。庭先の寄せ植えを見る。たとえば、自宅周りの風景に、グリーンがまったくなかったら、まったく味わいのない景色になっているだろうなと思います。誰かの手によって植えられた種や苗が育って、育てられ、月日が経過し、その場所になじんでいく。季節ごとに様相を変える。
「心地いいな」と感じられる場所にはきっとそうした自然なるものが視界に入る内(うち)にあって、私たちの身体にゆらぎを与えてくれているのかもしれません。それが、木造住宅とか古民家に親しみを覚える理由でもあるのだろうと想像します。
私が今まで訪ねたケアの現場で忘れられない場所のひとつ、「有料老人ホーム 新」。緑が圧倒的に美しかった…。新を設計した建築士の八木稔さん(わくわくデザイン)にランドスケープについて問うた際、次のように話されました。
―西村佳哲さんによる『ひとの居場所をつくる』という本があります。ランドスケープデザイナーの田瀬理夫さんについて主に書かれた本で、そのなかに「関われる空間」というのが出てくるんです。“ランドスケープをデザインするというのは緑をきれいに配置するのではなく、人々がパブリックマインドを獲得するきっかけづくりに繋がっていないと面白くないと思う”というフレーズがあって。
(八木さん)まさにそうですね。ランドスケープはそのポテンシャルがもっと理解されて欲しいです。
以前、(新のランドスケープを手掛けた)水津功先生と話をしていたときに、今の畑は同じものをつくっていますよね。全部キャベツとか。山もここは杉林とか。それ自体が豊かじゃない。日本の風景をもう一回変えるにはどうしたらいいかという話をしていて。林だって自然の林じゃない。作り物になってしまっている。
そこの根本的な豊かさ。建築よりも、形が、目的が不明瞭で、だたあるものなので、より感覚がある人じゃないと(ランドスケープの)設計は難しいだろうなって思いますね。少ないんじゃないですか。日本でそういうことができる人は。
―新の圧倒的な心地よさって、私が訪問したのが、7月の晴れた日で緑がとてもきれいだった。時期も良かったのかもしれませんが、新の、光っていた緑の木々の光景がバーンって今でも残っているんですよね。忘れられない。
篠崎さんもよく言われますけど、あれがアスファルトだったらすべて終わりです(笑)。
だけど、手間もかかるし、管理もどうやっていくかという話。本当は地域の人たちと持ちつ持たれつで楽しみながら苦労も分かち合いながらやれる環境がいいと思うんですよね。そうでないと、その辺の街路樹と同じように、秋になる前に、紅葉が綺麗になる前にみんな切ってしまうじゃないですか。落ち葉のクレームがあるからって。そういう話ばかりになっちゃう。だけど紅葉を楽しみにしている人もいる。声を出さないだけなので、だからそういうことをしていかないと良かったねってならない。
※八木さんへのインタビュー記事全文は下記URL
人類学者・インゴルドのこと
さて、私は人類学者・ティムインゴルドの思考にとても関心があって、最近まで『BEING ALIVE 生きていること』(日本語訳の彼の最新著書)を読んでいました。その延長線でフリーペーパーAFTER2025を手にしました。インゴルドへのインタビュー記事がトップにあるんです。
―世界は共有するもの
―思い出を生きたプロセスにする
やはり、とてもとても興味深い言葉が綴られています。
このフリーペーパーは、大事にしたい言葉がたくさん詰まっていました。
ランドスケーピングというのもそのひとつ。武田重昭さんの「大阪のまちを育てるランドスケーピング」というコラムがあります。武田さんいわく「ランドスケーピングとは、まちに働きかけ、まちを愉しみ、多くの人と影響を与え合う暮らし方のこと。そう考えてみれば、建物や道路をつくらずとも、新しい風景をつくることはできる」。
変化の途中
5月7日に娘と散歩中に持ち帰ったキアゲハの幼虫。持ち帰った翌日にはギュッとサナギになり、羽化するのをずっと待っていました。「遅いなあ…」と思っていたけれど…この文章を綴っている最中(5月26日)、珈琲を淹れにリビングへ降りたとき、羽ばたいている蝶が虫かごのなかにいるのが私の眼に映りました。
すぐに、我が家の小さな花壇に放ちました。
広い場所へと、広い世界へと飛びだってゆきました。
私たちだって「BEING」。生きている最中(さなか)です。
②へ続きます。
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